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2005年09月18日

モノトニックな編集

誰もが百科事典の執筆者になれるWikipediaのすごさは、その創設者であるジミー・ウェールズの次の言葉に表れていると思う。
「書いた記事をそのまま残す唯一の方法は、正反対の立場の人間でも納得するようなものを書くということだ」(朝日新聞社刊「ブログ 世界を変える個人メディア」より)

誰にでも編集できるドキュメントをネット上に残すということは必然的に中立で公正で正確なものにせざるを得ないということらしい。

これは僕にとって衝撃である。
僕はWikiの思想が嫌いなのだが、その理由は、まさにその「誰にでも編集できる」という点だったからだ。
世の中には悪意を持った人間が必ずいる。
そして悪意を持った人間が匿名という隠れ蓑をかぶるとたいていろくでもないことをする。
そんな人間がうようよいる中で、Wikiなんかやったら「どうぞ荒らしてください。気に入らない文章を改ざんするのもご自由に」と言っているのと同じだと思っていた。

でもそうじゃないというわけね。
Wikipediaでは、ボランティアの力で、悪意を持った人たちの暴挙を見つけては修復するという作業を延々と繰り返し、そういう人たちがあきらめて去っていくのを待つ、という戦略をとっているらしい。
200人ほどが常時チェックし、1000人くらいが継続的に書き込んでいるそうだ。

多くの人間の自発的な努力で、公正で正確な情報を生み出して共有するという仕組みはまったくすばらしい。


いや、ちょっと待てよ。
人間の生み出すもので、真に中立で公正なものなんて本当にあるのだろうか。
正反対の立場の人間でも納得できる文章なんて本当に書けるのだろうか(ディベート慣れしている人間なら書けるのかも知れないけれど)。

複数の立場からの解釈や意見を書き、あえてそれらに対する評価(優劣をつける、など)を書かない、というならば理解できるけれど、それでは、その文章を書いた人の考えや伝えたいことはどこにあるのだ、と思ってしまう。
文章を書く人間が常に中立でなければならないなんて、窮屈でしょうがないじゃないか。

つい先日行われた第44回衆議院議員総選挙は、客観的な事実のみで説明しても、その本質を伝えるのは困難だと思う。
衆議院の総議席の3分の2を与党(しかも、ある法案への反対者を造反者と呼ぶような政党)の議員が占めることの危険さは、実際にその影響が目に見える形で現れるまでは憶測でしか語ることができない。
事実としては、しばらくは参議院がもう意味をなさない、ということだけだ。
でも、もし、たとえば人権擁護法案などが十分に議論・推敲されないまま可決され施行されたとしたら、国益を害すること著しいだろう。
そうなったら、本当にこの国はやばいと思う。
それにしても、今回の選挙でわかったことは、自民党や公明党はひたすらあざとくて、民主党はひたすら愚かだということだろう。
僕が投票した選挙区の近くでは、「カリスマ主婦」とかいう人が約8万8千票を獲得した(小選挙区では落選したが、比例で当選した。自民党の東海ブロック1位だから当然だが)。
この人は料理研究家だそうだが、そんなの政治には関係ないじゃないか。
人気があるのはわかるけど、話していることを聞いても、政治に関わる動機付けが弱すぎる。
参議院ならまだ許せるけど衆議院である。
以前からそうだけど、本当に自民党(に限らないが)は有権者をなめている(8万8千人も投票するんだから、なめられても仕方がない気がするけれど)。

閑話休題。

やはりWikiの仕組みでは、人間の労力がかかり過ぎてダメな気がする。
常時チェックしている人が何人もいるとしても、バージョン管理をしているにしても、万人が同じコンテンツを自由に編集可能にするのは全体の負担が多過ぎるし、そもそも何か大事なものを失ってしまう気がする。

一般的な編集の問題は非単調(ノンモノトニック)なことだ。
これは、前にやったことを次にやることがひっくり返してしまう(あるいは、なかったことにしてしまう)ことである。
たとえば、校正や推敲という行為は、誤りを直したり、表現を改めたりするわけだから、必然的にノンモノトニックになってしまうじゃないか、という人がいるかも知れない。
しかし、これは比較的短期間において、一人の人間が、自分の書いた文章に対して行うものだと思う(もちろん、例外はあるだろうけど)。
ここで問題にすべきは、不特定多数の人間が非同期に作成するドキュメントに関することであり、必然的にその編集の形態はこれまでとは変わっていくべきだと思う。
また、たとえ同じ人間でも、時間がたてば考え方が変わるかも知れないから、違う人間として扱ってもよいのではないかと思う。

これと反対の概念が単調(モノトニック)である。
これは、前にやったことを変えずに次のことをやることであり、以前の文章を削除したり書き換えたりせずに、次の文章を書き加えていくことに相当する。
「Aである」と書いてあるところに、「Bである」と書きたいとき、「Aである。いや正しくはBである」と書くのはモノトニックだが、「Aである」を削除して「Bである」と書くのはノンモノトニックである。

和歌の上の句と下の句を別の人が詠む連歌というものがあるが、これもモノトニックな編集(ここでいう編集は創作を含むものとする)の一例である。

バージョン管理しているんだから、削除しても戻せるから、それでいいじゃないか、と思うかも知れないが、そうではない。
たとえ、「Aである」が削除されて「Bである」が入力されたという履歴が残されていたとしても、「AとBの中間である(実は、これが一番適切だとする)」と書こうとしている人にとって、あまりうれしい情報ではないのである。
たとえば、「Bである」の状態なら、Aの説明もした上で「AとBの中間である」と書くわけだし、履歴を使って「Aである」の状態に戻してからなら、Bの説明もした上で「AとBの中間である」と書くことになり、どちらにしてもあまりうれしくないのである。
どうせなら、AとBの両方の記述が残っていたほうが書きやすいのに、と思ってしまうだろう。
つまり、バージョン管理は一般に木構造を構成し、各バージョンは枝分かれの節点となる。
一般に、分かれてしまったものを再び統合するのは容易ではないのである。

では、すべての編集をモノトニックにやる方法はないだろうか。
上の例では、「Aである」も「Bである」も「AとBの中間である」もすべて書き、いずれの書き込みもそれ以外のものを削除して行うものではない、ということである。

ただ単に、すべて書き、何も削除しない、ということではまずい。
書き込みの間の依存関係がわからなくなってしまうからだ。
多くの場合、複数人の書き込みには何らかの依存関係がある。
この場合の依存関係は、新しい書き込みが以前の書き込みを訂正したり、補足したり、批判したり、反駁したりする、などの関係である。
これらの依存関係を維持しつつ、すべての情報を読み手が混乱しないように残しておく仕組みは考えられないだろうか。

僕らの考えている仕組みはそれを可能にすると思っている。
それはアノテーションとトランスコーディングに基づくものである。
アノテーションは新しい書き込みの内容と、すでにある書き込みとの依存関係を同時に表現することができる。
それぞれの書き込みごとにレイヤーがあって、それらが重なっているというイメージで、レイヤー間に依存関係が定義される。
これはWebページ内の任意の箇所へのコメント付与として実現されているものがある。

これだけだと、ただ重なっているだけで大変読みにくいので、自動的に、依存関係のあるものをまとめて、整理して表示する必要があるだろう。
これはトランスコーディングと呼ばれる仕組みで行う。

トランスコーディングについては、いろいろなところで話したり書いたりしているのだが、今ひとつ浸透していない。
要するに、コンテンツがユーザーに届けられる過程で、アノテーション等のメタコンテンツをオンデマンドに統合してコンテンツを動的に変換する技術である。
もちろん、クライアントが十分にリッチであれば、すべての情報を取り込んでから、表示すべき内容をインタラクティブに決めればよいのであるが、読むという作業と決めるという作業を同時に行うのは結構負担がかかるから、できれば、読んでいる途中の段階ではいちいち選択したくないだろう(ハイパーテキストがいまいち読みにくいのはこのためだと思われる)。

そういえば、ハイパーテキストの発明者であるテッド・ネルソン(ちなみに、Webの発明者ティム・バーナーズ=リーはハイパーテキストに触発された自らの着想について彼の意見を伺っていたらしい)が慶應SFCで行った研究にトランスパブリッシング(transpublishing)というのがあるが、これがまさにモノトニックな編集を実現しようという試みだった。
これは、ネットワーク上での著作物に関する著作権問題を解決するために、著作物の利用をコピーではなく特殊な引用(それをtransquotationと呼んでいる)に限定して、引用元の情報(の一部)が引用先に自動的に埋め込まれる仕組みによって、その著作物の再利用を実現しようとするものである。
このような引用によって、原著作物を尊重し、その権威を保証することで、原著作者の著作物利用権の許諾は自動的に得られるという基本的な合意を、トランスコピーライト(transcopyright)と呼ぶそうである。
この研究が今どうなっているのかわからないが、まだまだ一般的に普及しているとは言い難い状況である。

著作権の問題は少々ややこしいし、それは技術だけでは解決できないと思うが、それ以外のことなら、アノテーションとトランスコーディングで解決できるだろう。
このような仕組みによって、悪意を持った書き込みを排除し(というか、表示しないようにし)、整合性のとれた書き込みのみを表示することができる。
それだけではなく、競合関係にある書き込みを比べて、どちらの主張が正しいかを検討することもできる。
これはノンモノトニックな編集(つまり、競合関係にある記述を削除して、新しいものを書いてしまうこと)では不可能であったことである。

将来は、アノテーションとトランスコーディングを利用したモノトニックな編集があたりまえのものになって、同じドキュメントでも、年齢が上がり知識や経験が増えていくに従って、異なる読み方ができるようになるだろう。

かなり前のことになるが、「本当は恐ろしいグリム童話」(KKベストセラーズ 1998)という本が話題になった。
この本は、グリム兄弟が1812年に上梓したグリム童話の初版にいくつかの解釈を加えて書かれている。
グリム兄弟はその後、当時の批判に答えるために、改訂に改訂を重ねており、1857年に第7版が出版されている。
現在、日本で一般に知られているグリム童話は、この第7版の邦訳である(ちなみに、原書はドイツ語である)。
たとえば白雪姫などは、ディズニーがさらに子供向けに改変したものが広く知られていると思う。
ディズニーの白雪姫しか知らない人(実は僕もそうであった)が、オリジナルの物語を知ったらさぞ驚くだろう(これでは白雪姫より毒リンゴを食べさせた王妃に同情したくなる)。

グリム童話は不特定多数の著者によって書かれたものではないが、そもそも民話や神話などを下敷きにして書かれたものであるし、初版の刊行後に多くの批評家からの批判を受けて改訂しているわけだから、ある意味、共同著作のようなものと考えられる。
もし、モノトニックな編集によって改訂版が書かれていたとしたら、どのような意図でどの部分を変更したか、思考の流れがしっかり読み取れたかも知れないし、著者や翻訳者が難解と判断し、削除してしまった部分も、読者のレベルに応じて詳細に表示して、より深い背景を知ることができただろうと思う。

モノトニックな編集は、人々の書き込みが集まっていくさまを忠実に残し、その総体から大きなストーリーが生み出されていく過程を表現できるだろう。

投稿者 nagao : 2005年09月18日 00:22

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