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2005年11月27日

センター・オブ・エクセレンス(前編)

大学教員になって4年が経過した。
しかし未だに、大学で感じる居心地の悪さが消えない。
それは教育という仕事の途方もない迂遠さによるものだろう。
自分が何かを成し得たという実感がないまま時間ばかり流れていく。

無論、僕は教育者になるために大学に来たのである。
僕は研究(というか、新しいものを作ること)が好きでしょうがないので、40歳を過ぎても研究者を続けたかった。
それが可能なのは大学だけだと思ったから、企業の研究所から大学に移ることを決心した。
まだ会社でやりたいこともあったし、もう少しだけやりたいようにやれそうな状況だった(かなり制約は受けていたが)にも関わらず、そのときの自分のポジションに留まるのをあきらめて大学に移った。
「もう少しだけ(着任を)待って欲しい」と大学側にお願いしたのだけど、待ってくれそうになかったので仕方なく、仕事の途中にも関わらず退職した(今考えると、そんなに急がされなくてもよかったのではないかと思うが)。

そんな僕でも、大学に来るということは、単なる研究者ではなく教育者になることだという自覚があった。
研究よりも教育の方がずっと重要だということは何となくわかっていた。
だから、研究室を立ち上げるときに、学生がどうしたら社会で必要な技術や知識や経験を身に付けて卒業できるかについて考え抜いた。

僕の指導方針ははっきりしている。
それは、学生を鍛えることに関して妥協をしない、ということである。
「仏の○○」みたいな存在にだけは絶対になるまい、と思っていた。
僕が適切だと考える基準を満たしていない学生は、絶対に卒業させないし、学位を与えない。
それだけは初めから決めていた。

そう思って学生と接してきたけれど、やはり現実は厳しいものだった。
僕の指導方針を受け入れられず出て行くもの(指導教員を変更したり、休学・退学したりするもの)が何人かいた。
それに、基本的に僕は学生の受けがあまりよくない気がする(まあ、厳しい教師が敬遠されるのは当然といえば当然だけど)。
予想はしていたけれど、教育に伴う精神的な苦しみはかなりのものである。


日本の大学はエリート教育にはまったく適していないと思う。
大学院ですら、そのプライドを維持できず、入学基準をどんどん下げていっているような気がする。
要するに一部の突出して優秀な連中をさらに高めるような教育をするのではなく、多少なりとも学生全体の(平均的な)能力のレベルアップをしようとしているように見える。
だから、大学を卒業して何か特別なものを身に付けたという学生はほとんどいないけれど、入学前よりは何となく潜在能力が上がっている(気がする)学生はある程度以上いるのである。
まあ、アメリカなどと比べて文盲率がかなり低い日本人は、独学でも結構色々勉強できるから、特別な能力の獲得を大学に期待してはいないのだろうけど。

かなり以前に、MITというアメリカの一流大学のある教授とちょっとだけ教育に関する議論をしたことがある。
その人はこう言っていた。
「ここに来る学生はアメリカで選りすぐりの優秀な連中だ。その連中をさらにレベルアップしてやることがわれわれの仕事だ。できない学生もそれなりにできるようにする、なんてことはわれわれはやらないし、やる必要もない。できる者をさらにできるようにする方がはるかに効率が良いし、やりがいもある。」
何となくその言い方にカチンときた僕は(そのときは教育者でも何でもなかったが)こう言った。
「いや、教育ってそういうものじゃないんじゃないですか。国家全体が賢くなるっていうのは、できのいい人もそうでない人も含めて、みんながその教育のおかげで、その人なりにできるようになるということですよね。僕は、学習者全員をそれなりにできるようにするというのが、本来の教育の役割だと思うのですが。」
そうしたら、こう言われた。
「それは否定しないけれど、そのやり方では国を引っ張っていけるような人材は育てられないよ。日本の大学教育がダメなのは、妙な悪平等が働いて、もともと才能がある人間をちゃんと伸ばせられないところに原因があるんじゃないのか。」
「そうかも知れません。ですが、国民全体のレベルがある程度以上になれば、たとえ突出した人間があまりいないとしても、国家としては健全になるんじゃないでしょうか。」
この件で議論してもあまり意味がないと思われたのか、この話はこれ以上続かなかった。

僕は、頭のいい一部の人間がそうでないその他大勢の人間を引っ張っていけばいい、という考え方にはどうしても同意できない。
その頭のいい人間だって失敗することはあるだろうし、それをちゃんと指摘したり、考えの修正を促したりする人だって必要だろう。
もちろん、リーダーシップが不要だなんて言うつもりはさらさらないし、リーダーがいない組織がうまくいくはずがないと思うが、リーダーとなりうる人材さえ育てられればよいという教育は明らかに間違っていると思うのである。

そもそも、日本の大学教授が国家のリーダーを育成できるほど偉いとは思えない。
僕の父親も大学教授だったが、大学教授だからという理由でその人が偉いと思ったことはこれまで一度もない。
基本的に、僕と学生の違いは経験の違いに過ぎない。
だから、僕は学生から尊敬されたいなどと思ったことはない(感謝されたいと思ったことは正直あるけれど)。
馬鹿にされたり軽蔑されたりするのはさすがにまずいと思うが、別に尊敬される必要はないし、さらに言えば、好かれる必要もないと思っている。

学生に嫌われることを恐れていたら教師なんてやっていられない。
どう思われようが構いはしないが、ある一定の基準だけはちゃんと満たしてから社会に出て行ってもらう。

基準とは、たとえば以下のものである。
1.プレゼンテーションができること
2.ディスカッションができること
3.専門的スキル(たとえば、プログラミング能力)があること
4.一般的な発想力や問題解決能力があること

大学での研究活動とは、これらについて具体的にトレーニングするための方便に過ぎないと思う。
これらはもちろん明確な基準ではない。
そもそも、○○ができるとか、○○する能力がある、というのは、個人によって達成できるレベルが異なる。
僕は学生一人一人にこれらに関する能力がどの程度備わっているかを確認しながら指導を行っている。
そして、それぞれの人に見合った基準値を設定している。
本人の努力が足りなくて、僕が想定する基準に達しないときは、厳しい態度を取る。
やるべきことはそれぞれ若干違うけれど、好むと好まざるとに関わらず、必ずやっていただく。
自分ではがんばっているつもりだ、などというのは言い訳にさせない。

できれば、研究そのものを好きになって自発的にがんばってくれることを期待しているのだけど、あまり贅沢は言うまい。
一流の研究者を育てることが僕の本来の目的ではないのだから。

さて、今回の表題のセンター・オブ・エクセレンスというのは、世界に通用する一流の研究者・技術者を育成する機関という意味である。
一般に、COEという略称で呼ばれる。
この名称はどこかで目にしたことがあるのではないかと思う(企業のトップを表すCEOと混同しないように)。

文部科学省が推進する21世紀COEプログラムというのがある。
僕もそれに少なからず関わっている。
文部科学省に提出する提案書の草案の一部を書いたこともある(もっとも、その痕跡も残らないくらい書き直されてしまったけれど)。
そもそもエリート教育に向いていない(と思われる)日本の大学が、どうしたらCOEたりえるのか。
大変興味深いところである。
僕が知っているのは、さもありなんという話ばかりであるが、多くの人が涙ぐましい努力をしているのも事実である。
この試みの本質がどのあたりにあるのか、僕なりの考えを述べてみたいと思う。
これについて触れるのは、少しだけ勇気と準備がいるので、数日後に続きを書くことにする。

というわけで、後編をお楽しみに。

投稿者 nagao : 21:35 | コメント (258) | トラックバック

2005年11月20日

続報「今、本を書いています」

以前にもこのブログに書きましたが、デジタルコンテンツに関わるさまざまな技術の現状と展望についての本を執筆しています。
今回はそのまえがきの部分を掲載します。

ありったけの知恵を絞って書いているところですので、是非、読んでいただきたいと思います。

まえがき

デジタルコンテンツは、もはや人々にとってあたりまえの、きわめて日常的なものになっています。
Webページはその典型ですが、それ以外にも携帯電話のコンテンツや、デジタルカメラで撮った写真、デジタルビデオカメラで撮影した映像、CDやダウンロードした音楽、デジタル放送などなど。
視聴者は、もはやそれがデジタルであるかどうかなど気にかける必要もなくなってきています。

しかし、デジタルコンテンツであることには重要な意味があります。
デジタル化されたことで、その複製を作るのが簡単になり、複製の過程で情報が劣化しなくなったということがありますが、要するに情報を保存することが容易になったということです。
ただし、保存が簡単ということがすべてではなく、編集などの加工が柔軟に行えるようになったということがより重要です。

これまでももちろん、取得した情報がまったく加工できなかったわけではありません。
たとえば、はるか昔は、写経のように、紙に書いてあるお経を自分なりの字で書き写したり、石に刻むなどして別の形式に変換することもできましたし、絵画を模写して自分なりにアレンジを加えたり、テレビ番組を録画して、お気に入りのシーンを編集して(自分専用の)番組を作ったりなど、デジタルになる前からいろいろとできることはありました。

デジタルコンテンツはそれ以上のことを可能にします。
それは、情報の加工の仕方をプログラミング(自動処理化)できるからです。
これは、非常にありがたいことです。
たとえば、ある大好きな番組のいつも前半15分はつまらない内容ですが、オープニングは見たいのでいつも最初から最後まで録画しているとします。
しかし、できれば不必要な15分は自動的にカットしてしまいたいでしょう。
番組の構成が変わらないのなら、機械的に必要な部分だけ抜き出せるはずです。
編集をプログラミングできるなら、こんなことは造作もないことです。
あるいは、1万ページもの印刷物から特定のトピックに関するものだけを取り出すのは容易ではないですが、コンテンツがデジタル化されていて話題抽出のやり方がプログラミングできるなら、読むべきものを取り出すのは非常に簡単です。

このように、デジタルコンテンツになって情報の取り扱い方は大きく変わってきました。
本書は、デジタルコンテンツの生み出す世界をさらに発展させてもっと面白いことができるようにしようという試みについて述べています。
本書では、基本的に2つの技術を柱にしています。
1つは、トランスコーディングと呼ばれるもので、もう1つはアノテーションと呼ばれる技術です。
もちろん、たとえば作成、検索、配信などのその他の重要な技術についても触れていますが、本書の話題の中心からは少し外れているので必要最小限に留めたいと思います。

トランスコーディングは、コンテンツの変換をプログラミングするための技術です。
これによって、コンテンツは視聴者にとって最も都合のよい形に自動変換できるようになります。
また、アノテーションは、コンテンツにさらなる情報を付与して、プログラミングが容易になるようにコンテンツを拡張するための技術です。
アノテーションはコンテンツを分類するのに容易なタグを付けることや、複数のコンテンツの任意の要素をリンクによって結び付けることなどを含んでいます。

本書では、これら2つの技術を詳しく紹介するだけでなく、これらを統合し、発展させた仕組みを紹介し、デジタルコンテンツの方向性を展望したいと思います。
筆者は、この仕組みによって、Webによって可能になった、たくさんの人を巻き込んだコンテンツの共有化と再利用が、さらに大きく進むと考えています。

筆者は、この本で述べている、デジタルコンテンツに関する新しいテクノロジーに大いなる期待を持っています。
それは、多くの人の作り出すコンテンツが、世界中の人々や出来事をよりよく理解し、社会をよりよく変える原動力になると思っているからです。
そのようなコンテンツを、最大限に活かす技術を生み出すことは研究者の重大な仕事だと思っています。
社会システムを変えるというのはとてつもないことですが、テクノロジーが、多くの人の自発的な行動を促進して、そのような行動が自然に正しい方向を向くようになっていれば、解決すべき問題の本質が見えてきて、そのときまでは実現が困難だと思われていたことも、思いがけないやり方で解決されていくのではないかと思っています。

この本は技術書ですが、啓蒙書でもありたいと思っています。
情報技術の本質というものは、実はそれほどむずかしいものではありません。
専門家でなくても、じっくり考えてみれば十分に理解できるものだと思います。

これからは、コンテンツをただ作成して配信するだけでなく、自分の作ったものも他者の作ったものも含めて、より賢く利用するための仕組みがいろいろ出てくると思います。
コンテンツを賢く使うとはどういうことなのか、また、そのために何をすればよいのか、それによって何がどう変わるのか、ということを読者のみなさんにわかりやすく説明できればよいと思っています。

基本的に、本書は、筆者が直接あるいは間接的に研究開発に関わっている技術について解説していますが、それ以外の重要な技術、たとえば昨今話題になっているブログやSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)、セマンティックWeb、Web 2.0などに関しても筆者のわかる範囲で説明を加えています。

コンテンツ技術は、今とても重要な転換点を迎えつつあると思われます。
それは、もちろんWeb技術の進展によるところが大きいのですが、コンテンツがデジタル化されたことによって必然的にもたらされるものだったのです。
読者のみなさんには、コンテンツの可能性の大きさを感じとっていただきたいと同時に、自分や他者のコンテンツをこれまでよりもっと大切にする気持ちを持っていただきたいと思います。

コンテンツはきっとみなさんにとって貴重な財産になるでしょう。
そして、そのような財産にさらにどんな価値を加えていくかは、みなさん一人一人が考えて、実行していくべきことなのです。

投稿者 nagao : 23:51 | コメント (2) | トラックバック

2005年11月13日

コンテンツがタダになる日は来るか

最近「コンテンツ消滅」(小林雅一著 光文社ペーパーバックス 2004)というアイキャッチなタイトルの本を読んだ。
このタイトルには、「日本沈没」とか「首都消失」みたいなインパクトがある。
似たようなタイトルの本に「科学の終焉(おわり)」というのがある。
思わず手に取ってしまうタイトルである。

この本には、コンテンツ業界の苦悩が切々とつづられている。
1年前に出た本だから、このブログを見ている人の中にもこの本を読んだ人がいるかも知れない。

僕なんかには涙が出るほど懐かしいスペースインベーダの開発者の話などが出てくる。
スペースインベーダ(という名のテレビゲーム)がヒットしたのは1978年である。
僕は当時高校生だった。
そのとき付き合っていた女の子と学校の帰りに喫茶店に寄って遊んでいたのを思い出す。
あまりうまくないけど、いいところを見せようと思ってがんばったりしていた。

このゲームは日本のタイトーという会社の社員がたった一人で作ったものらしい。
開発費は1000万円程度(ほとんど人件費)で売り上げは2100億円だったという。
このゲームのヒットは社会にも大きな影響を与え、ソフトウェアの著作権を成立させるきっかけにもなったという。
当時から、ゲームの無断コピーによる海賊版が問題になっていたからだ。

この本の中で繰り返し述べられていることは、コンテンツという知的財産の創造は、過去の知的財産の共有によって成り立っているということである。
「過去の知的財産を徹底的に理解し、それを材料にありったけのエネルギーと創意工夫を注ぎ込んで、その時代が欲しているものへと再結晶させた」ことによって、すぐれたクリエイターたちは新しい知的財産を作り出してきた、ということらしい。

「創造は常に知財の共有から始まる」のだから、「そうした枠組みやルールがきちんと構築されない限り、デジタル時代の知財共有は創造ではなく崩壊と衰退を引き起こす」のだそうである。

NapsterやKazaaのような著作権者に対価が支払われない仕組みでコンテンツを入手するということは、「大変な熱意と体力とお金を消費して」コンテンツを創造したものたちに対して、正当な報酬を受ける機会を失わせることになり、意欲を減退させ、その結果、新しい時代に合ったコンテンツを誰も楽しめなくなってしまう、ということである。

事実、アメリカの音楽業界の売り上げ高は、1999年をピークに、その後、2003年まで連続的に減少し、ピーク時に比べて3割近く落ち込んだそうである。
その原因として、NapsterやKazaaのようなファイル共有サービスによる海賊版の蔓延があるらしい。
それで、米レコード産業協会はそれらに対して訴訟を起こし、Napsterに対しては勝訴、Kazaaに対しては敗訴している。
この違いは後者が完全P2P型で、サーバーレスであることによる。
つまり、ファイル共有サービスは海賊版の取引に直接関与していないため、その責任は問えず、直接関与している利用者にこそ責任を問うべきだ、ということになったらしい。
2003年4月のことである。

その後、同じ年の9月、同協会は、1日に100曲以上ダウンロードするようなヘビーユーザー261人を抜き打ち的に訴え始めた。
「ある日突然、自分の娘に裁判所から召喚状が届き、親が青くなってレコード会社に謝罪した、というような光景がアメリカのあちこちで見られた」そうである。
この効果は最初のうちは絶大だったそうであるが、数千万人の利用者の中から、せいぜい数百人程度を訴えたとしても、その効果には自ずと限界があった。
実際、2004年7月には、460万人がKazaa等のファイル共有サービスにアクセスするようになった。
これは訴訟前の最盛期とほぼ同じ人数らしい。

このような流れの中に、日本でのWinny開発者の逮捕がある。
これはアメリカの音楽業界がNapsterやKazaaを訴えたような、サービスの合法性を問う民事訴訟ではなく、開発者の犯罪性を問う刑事訴訟である。
こんなことは訴訟大国アメリカでさえ見られなかった現象である。

マスメディアのネガティブキャンペーンのおかげで、この件は非常に間違った報道がなされているようだ。
たとえば、2004年5月10日のCNET Japanの記事では以下のように書かれている。
「京都府警によると、Winnyの開発者は、その動機として「現行の著作権法に疑問を感じていた。そのなかで違法にデジタルコンテンツがやり取りされるのは仕方がない。それなのに企業が新たなビジネスモデルを構築せず、警察に取り締まりを任せている。この体制を崩壊させるには、ネット上で著作権法違反を蔓延させる必要がある」と自らの違法性を認める発言をしている。」
おそらくこれは誰かのでっちあげだろう。

冒頭で挙げた本で紹介されている、Winny開発者の次の言葉はもっともである。
「技術の進化は止まらないし、止めようとしても止まるものではない。技術そのものを有効活用する方向を目指すべきだ。ソフト開発が犯罪の幇助に当たるという前例が作られれば、開発者には大きな足かせになってしまう。私は無罪です。」
これは彼が逮捕され、京都地裁における初公判(2004年9月1日)での言葉だそうである。

僕は、Winnyを使ったことはないし、不特定多数とファイル共有をして、あからさまな著作権侵害をするような人の気が知れないが、新しい技術の発明者が刑事告発される状況は、ソフトウェア技術者の一人として看過できない。

先に挙げた本の著者はこう書いている。
「P2Pのような新技術は両義性を持っている。それは「毒にも薬にもなる単なるツール」というより、「毒であるからこそ、薬にもなる」という表現が正しい。結局、それは破壊者にして創造者なのである。既存システムの網の目が隙間なく張り巡らされた現在においては、新たなシステムの創造者は、その前に破壊者でなければならないからだ。」


僕は以前から周りの人に「コンテンツはいずれタダになる」と言ってきた。
コンテンツがタダになっても、その制作者が損をしない仕組みを考えてきたつもりだった。
でも僕の考えなど所詮「素人の浅知恵」に過ぎないことをこの本によって知った。
新たな仕組みの創造者になるためには、既存のシステムを破壊しなければならない。
当然、既存のシステムを立ち上げ、維持してきた人たちもいて、その人たちは破壊されまいと努力するだろう。
そういう人たちと戦ってはいけないのだ。
泥仕合になるからである。

現在のコンテンツ産業をよく理解して、その矛盾点を突き、じわじわと変革をもたらしながら、気がついたら新しいシステムに変わっていた、という状況を作り出すべきなのだろう。
そうじゃなくて、変革を急ぎ過ぎると、その過程で既存システムの破壊ばかりが進行して、コンテンツ産業そのものを破綻させてしまうかも知れない。
この本は、その危険性を多くの人に伝えようとしている。

IBMの研究所にいたときに、社内のいわゆるITコンサルタント(IT業界のハイエナ。一部では癒し系とも言われている)に連れられて、日経新聞の本社で、デジタル化に関わっている人たちの前でプレゼンをやらされたことがあった。
そのときに、コンテンツをネットで出すことについて、当然ながら著作権の問題に話が及んだ。
僕はそこでも「コンテンツはタダになる論」を振りかざし、「コピー(海賊版)を防ごうとすることがそもそもナンセンスですよ。これからはいくらコピーされても著作権者が損をしない、さらに言えば、コピーされればされるほど著作権者が得をする仕組みを考えるべきなんです」と主張したのだけど、あまり理解されなかった覚えがある。

よく考えると、現場の人たちは、もう自分たちのコンテンツそのものには従来ほど商品としての価値がないことをよくわかっていて、それでもビジネスモデルを変えられずに苦しんでいるところだったのかも知れない。
そういう人たちに変革を急がせても逆効果だろう。
古いシステムへのしがらみが強すぎて、その破壊に積極的になれないだろうからである。

やはり、もっと新しい業界で成功例を作っていくしかないのかも知れない。
たとえば、オンラインゲーム業界である。

日本ではあまり馴染みがないように見えるオンラインゲームは、韓国や中国などでは爆発的に普及しているらしい。
たとえば、韓国ではゲームユーザーの6割以上がオンラインゲーマーだということである。
これらの地域でオンラインゲームが普及している背景には海賊版の問題があるそうだ。
海賊版がすぐに出回ってしまうために、パッケージゲームソフトの開発費が回収できず、これらの開発はすぐに廃れてしまったらしい。

オンラインゲームのビジネスは、ゲームの舞台となる仮想世界を運営するサービスが主体となり、毎月、ユーザーから使用料を徴収することで収益を上げている。
そのため、違法コピーによって受ける損害は少なく、伝統的に著作権管理に甘い地域で普及したそうである。

オンラインゲームはSNSと同様(というかSNSも一種のオンラインゲームと言えるかも)に複数の人間が参加しコミュニティを形成している。
他の参加者と時に戦い、時に協力し、親密になったりする。
つまり、実世界との接点を持ち、リアルな葛藤やスリルや感動を経験するのである。

これは当然、社会的な現象となり、ゲームに没頭しすぎることで生じるさまざまな弊害も存在する。

オンラインゲームの世界でPKと言えば、それはPenalty Kickのことではない。
Player Killerのことだそうである。
日本のゲームでは、「信長の野望Online」などの合戦ゲームを除いて、ゲーム内での殺人は禁止されているのだそうだ。
しかし、韓国などの諸外国では禁止されていない。
初めてゲームに参加した人のキャラクタがいきなり殺されてしまうこともあるらしい。

オンラインゲームで知り合ったプレイヤー同士が結婚することもあるらしい。
それ自体は別にどうでもいいことなのだけど。
先の本の中で紹介されている逸話にこんなのがあった。
「この前、知人の結婚式に行ったら、司会者が「馴れ初めは何ですか?」。新婦が「ネットゲームで命を助けてもらったから。彼は命の恩人です」と。冗談かと思ったら、どうも本気なんですねえ」

ネット上で知り合ったプレイヤーが女性かどうか、というのはゲームをする上で重要なファクターらしい。
知り合いのオンラインゲーム会社(ゲーム以外のこともいろいろやっているみたいだけど)社長(ringo。君のことだよ)に聞いたところ、ネカマっていうのがいるらしい。
僕は知らなかったのだけど、これはオンラインで女性のふりをする男性だそうだ(どうしてそういうことをするのか、僕にはよく理解できないけれど)。
それで、ネカマチェッカー(あるプレイヤーがネカマかどうかを判定するプログラム)の(潜在的)需要はすごく高いらしい。
これはおそらくオンラインならではの需要だろう(オフラインの生活では必要ないですよね。多分)。

ちなみに、コンピュータを媒介とした会話で相手が男性か女性かを当てるというのは、有名なチューリングテストと呼ばれるもの(のオリジナル版)である。
チューリングテストは、人工知能と人間を区別するテストだと思われているが、もともとはそういうものではなかった。
「ブレードランナー」という映画にも出てくるが、人間そっくりの人工知能と人間を区別するテストは常に会話(に付随する目の動きなどの非言語的動作を含む)によって行われる。

オンラインゲーム、あるいはネット上のコミュニティには、コンテンツの創造と知財共有の新しいメカニズムが考えられるかも知れない。

たとえば、アイテムと呼ばれるゲーム内で使う道具の売買が行われているらしい。
アイテムは、無論、情報的な財であり、これも知財の一種である。
アイテムの価値はそれを必要とするプレイヤーの状況に依存する。
「わらしべ長者」みたいな価値の連鎖が発生するだろう。
わらしべ長者の物語では、物々交換を繰り返すことで、主人公の持ち物の価値が雪だるま式に増えていくのであるが、重要なことは、それらの交換によって誰一人として損をしていないことである。

オンラインゲームでのアイテムの所有は、通常の(物理的な)財の所有と異なり、サービスの存続に強く依存したものである。
ゲームのサービスが終了した瞬間に所有権を放棄させられる。

それは理不尽だと思われるかも知れないが、われわれが普段あたりまえに使っている貨幣(日本銀行券など。要するにお金のこと)だって、国家が崩壊すればその価値を失うのである。
崩壊しなくたって、デノミが発動されれば(もう、それだけで末期的だけど)価値はがらっと変わってしまう(しかも悪い方に変わる)。
でも、そんなことを本気で心配している人はいないだろう。
本気で心配すると貨幣というシステムが成り立たなくなる。
貨幣はその価値の保証を先送りし続けることで維持されているのだから。
ゲームのアイテムだって同じことである(ま、会社が倒産してサービスが停止される確率の方が高いかも知れないけれど)。

オンラインゲームのアイテムのような、新しい時代の知財の共有は、古い時代の知財の共有を必然的に含んでいる。
ものづくりとは、さまざまな形で過去から連綿と受け継がれていくものだからである。

「ブリコラージュ」という言葉(「器用仕事」という訳語があるらしい)を最近知った。
これは、すでにある持ち合わせの雑多な材料と道具を用いて、目下の状況で必要なものを作ること、だそうである。
どんな作品も繰り返し引用、加工、リメイクされることによって、より多くの人の目に触れ、そのたびに新しい意味を持つことになる。
コンテンツの価値は多くの人の手によって循環していくことによって、らせん状に上がっていくものである。
しかし、それを妨げようとするものが必ず現れる。
著作権問題もその一つだが、それにも増してやっかいなのは変化を望まない人々の心である。

知り合いのテレビ局の人(局次長クラス)に聞いたところ、鳴り物入りで始まったデジタル放送に期待するものはほとんどないとのことである。
デジタル放送にしてDRM (Digital Rights Management)に対応しないと、たとえばハリウッド映画などが放送で流せなくなるから、仕方なくやっているそうである。
「え、デジタル放送ならではのビジネスモデルがあるんじゃないですか」と聞くと、「ないよ。そんなの」だそうである。
「だって、テレビ業界は広告で十分ビジネスが成り立っているし、それはデジタル化されたって同じこと」なのだそうである。
「でも、僕はハードディスクレコーダに録画して、CMなんてほとんど見てませんよ」と言うと、「でも、CMを流した商品はちゃんと売れているし、多くの人はやっぱりCMを見て、商品を買っているんだよ」と言われた。
そうなのか。
テレビCMってこれまではともかく、これからも効果があるんだ。

「PCでテレビを見るっていう話があるけど、あんなのはごく少数のことであって、やっぱり、テレビはリビングの見やすいところに置いてあって、みんなそれを見てるんだよ。テレビがリビングに置かれている間は、この業界がまずくなることなんかないよ。」

話がテレビとネットの融合についてのことに及んだときに、「テレビ局って視聴者の情報が欲しくないんですか」って聞いたら、こう言われた。
「視聴者の情報なんていらないよ。テレビは、たくさんの人に同時に情報を送る仕組みだから、コストが安く済んでいるんだ。視聴者の情報なんかいちいち管理していたら、それだけで膨大な費用がかかってしまう。」
「ネット配信の動画ってあるじゃないですか。」
「あれはひどいね。無料の動画配信なんかやっているところがあるから、ネット資源を不必要に食いつぶしている。あんなのどこかのルーターでパケット止めてやればいいんだ。」
「Google Videoってどう思います。」
「最悪。著作権というものをまるっきり無視しているね。」
「訴えないんですか。」
「他(のテレビ局)がやればうちもやる。」
「今は黙認するんですか。」
「いや、静観しているだけ。」
「どうしてですか。」
「Google Videoのおかけで、マイナーな番組に人気が出ることもあるかも知れない。うちが訴えても、単にうちのコンテンツが紹介されなくなるだけ。業界全体が団結して訴えるならやるけど、自分のところだけが損するかも知れないようなことはやらない。」
「相手がGoogleだからですか。」
「そう。今はパワーバランスの上で向こうの方が力がある。もちろん、相手の方が弱ければ、必ず訴えてサービスを止めさせる。」
なるほど。
政治の世界ですね。

なんとなくテレビ業界の体質が変わらない理由がわかってきた。
フジテレビ騒動が起こって間もないときに、TBS騒動が起こったのは、テレビ業界人の危機意識が決定的に欠落しているからだろう。
世間で言うテレビとインターネットの融合なんて、テレビ側からするとコンテンツの2次利用(による小遣い稼ぎ)以上の価値なんて感じていないのだろう。
携帯への1セグメント放送も似たようなものらしい。
確かに、僕は、携帯でオンエア中のテレビ番組を見ようという人の気が知れない。
ネット広告ビジネスは最近ようやくラジオ広告のそれを上回るようになったらしいが、テレビの足元にも及ばない状態らしい。

テレビ局の不祥事がどんなに明らかになっても、多くの人はテレビを見るのをやめない。
どんなに視聴者を馬鹿にした低俗な番組を作っても、一部の人がクレームするくらいで、やはり見ることをやめない。

テレビに出ることが有名になることにつながり、ステイタスにつながるという図式がまったく変わらない。
また、相変わらずCMに踊らされ、商品を買わされる。
そんな状態が永遠に続くような錯覚に陥りそうだ。

実際、テレビ業界の人はそう思っているのだろう。

でも、もちろん、いつの日かきっと変化が起こる。
僕は、そう遠くない将来、テレビが大衆の一部の娯楽の一つに過ぎなくなり、当然ながらテレビCMビジネスは急落し、いい映画はテレビで流れなくなり、他の番組も今よりもっと質の低いものになってしまうことを予測している。
過去の映像資産は、テレビ以外のメディアで有効に活用されるだろう。
もちろん、そのときには、コンテンツにからみつく無数のしがらみが一掃されているだろう。
そうしないと生き残っていけないのだから。
アメリカで著作権の有効期限延長を繰り返し行っている、いわゆる「ミッキーマウス保護法」などの悪法も駆逐され、ディズニーはどこかに売却されているかも知れない。

最後に、冒頭に挙げた本で紹介されている、コンピュータソフトウェア著作権協会の久保田さんという人の言葉を引用しよう。
「大体、僕はディズニーランドには絶対行かない。だってもう、コンテンツの塊みたいな奴にズブズブに浸かって、金払って、全部アメリカに持っていかれて……そんなところに行けませんよ。ああいうものに「年に何回行ってますぅ」とか自慢して、アメリカのコンテンツに一杯金払ってねぇ、片や自分たちのコンテンツをコピーで済ませちゃおうというのは、どういう考えなんだろう。なんか、もうちょっと文化防衛論とか、アイデンティティとか、もう少し考えてくれよ、と僕は言いたい。どっちが損か得か。そういう視点がなさ過ぎる。結構、自分たちの文化をバカにしているところがあるから、日本人は。たとえば、外交官でも、能や狂言を見て外交官になっている人はほとんどいない。そんなことじゃあ、文化大国とか情報立国とか言っても、ちょっと違うんじゃないの、という気がする。日本の知的財産というものを、どう演出して国益につなげるか。そこに直結する判断がまず必要だと思う。
(中略)
これから日本の知財の経済的マックスをどこに持ってくるのか、文化立国としてのベクトルをどこに持ってくるのか、本当に議論しなくちゃいけないところです。」

ズブズブの僕にはこんなかっこいいことを言う資格はないのである(でも、ディズニーシーの炎と水のショー「ブラビシーモ」はすごくいいよ)。

投稿者 nagao : 23:59 | コメント (251) | トラックバック

2005年11月06日

ATとiPod

以前にもここに書きましたが、僕のいる研究室では、ATと呼ばれる、情報化された、個人用の電動の乗り物を作っています。

実は、11月11日(次の金曜日)に、テクノフェア名大という一般の人向けのイベントが名古屋大学で開催され、そこでATのデモをやる予定なのです。

当日の公開内容は、以下の通りです。
1. AT8号機の試乗、
2. ヒューマントレーサ(ATを降りた搭乗者をATが追いかける仕組み)のデモ、
3. AT間コミュニケーション(2台のATの間でメッセージや映像・音声、位置情報などを送り合う仕組み)のデモ、
4. 追体験支援(ATユーザーの体験を記録・共有・閲覧可能にし、同様の体験を他者がしやすいようにする仕組み)のデモ、
5. ATプレイリスト(音楽などのコンテンツを搭乗者の状態に合わせて選択し、提示する仕組み)のデモ

まったく類似性が見い出せないと思いますが、実は、ATはiPodを意識して設計されています(ちなみに設計者は僕です)。

iPodは音楽プレイヤにシンプルさと使いやすさにおいて革新的な変化をもたらしたと言えるでしょう。
それと同様のことを、個人用の乗り物にもたらしたいと思ったわけです。

たとえば、ATにはステップホイールという仕組みがあります。
これは人が円盤状のプレートの上に立つと、ATがその人の体重の偏りを検出して、前進・後退・回転などの走行制御を行うものです。
名前から明らかですが、これはiPodのクリックホイールを意識しています。

以下の写真をご覧ください。

stepwheel.jpg clickwheel.jpg

左がステップホイールで、右は言わずと知れたクリックホイールです(ちなみに、あたりまえですが大きさは全然違います)。

ステップホイールは小型の乗り物の操縦に新しい面白みを加えようという意図で作られています。
それはちょうど、クリックホイールがiPodの操作そのものを楽しくさせているのに似ている(と勝手に思っています)。

また、ATにはプレイリスト機能があります。
これは操縦者や走行速度(急いでいるか、ゆっくりか)に応じて、適切な音楽プレイリストを選択して、音楽再生を行う仕組みです。
ATを降りると音楽を一時停止し、再び乗り込むと続きを再生する仕組みもあります。
つまり、音楽環境を持ち歩くのではなく、人が音楽環境に入り込んで一体化し、共に移動するということです。
近いうちに、ATの提供する音楽が搭乗者の気分とシンクロして盛り上げてくれるようにすることができると思います。

いまや音楽は人の生活にかなり密着しているように感じられます。
また視聴環境は個別化し、ライブコンサートやラジオ番組などを除いて、複数人で同時に同じ音楽を聴くという状況もだいぶ少なくなったと思います。
だから、個人ごとの専用の音楽環境が常にその人についてまわるというのはごく自然のことのように思えます。
そのような環境を作り出すのに、搭乗者を識別する個人用の乗り物というのは非常によくマッチするのではないかと思うのです。

ATを体験したいと思った方は、是非、11日のテクノフェア名大にお越しください。

詳しくは、このWebサイトをご覧ください。

投稿者 nagao : 21:59 | コメント (23) | トラックバック