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2005年12月30日

センター・オブ・エクセレンス(後編)

12月に入って面倒なことばかりあって、このブログの更新がかなり遅れてしまいました。
毎週更新するという当初の計画も狂いまくりです。
来年こそは、週に1回書くというセルフルールを遵守したいと思ってますが、どうなることやら。。。

それにしても最近リアクションがなくて寂しいので、細かいツッコミでも何でもいいので何か欲しいです。


文部科学省が選定する21世紀COEプログラムは、現在、国内91大学の273箇所で実施されているそうである。
多過ぎると思うかも知れないが、そうではない。
せめてこれくらいはないと日本の将来がやばいからである。
もちろん、これらは一部を除いて本来の意味でのCOEではない。
世界に誇る最精鋭の研究教育機関が日本に273もあるはずがない。
しかし、そんなことは十分に承知した上で、日本にはまともな教育機関としてのCOEができるだけ多く必要なのである。

前回のエントリーで日本の大学はエリート教育に向いていないと書いた。
それは一部の優秀な学生に教育のリソースを集中できないからである。
できる学生が自力で伸びていくのは問題がないし、そのための環境が日本の大学にないと言っているのではない。
しかし、できる学生もそうでない学生も平等に教育を受けるようなシステムになっているのである。

COEというのはそういうものではないと言うのであれば、ほとんどの日本の大学はCOEにはなり得ないだろう。
しかし、日本式のCOEというのはあってもよいのである。

それは、ノーベル賞受賞者を何人も輩出するという組織ではない。
ある分野において、将来日本国家が必要とする技術をあらかじめ予測して作ったり、そのための人材を育てたりする組織である。

ところで、ノーベル賞の受賞者数をその国の国際競争力だと思っている人は意外に多いような気がする。
たとえば、国の策定した「第二期科学技術基本計画」(2001~)には欧州主要国並みの「50年で30人」という数値目標が示されている。

しかし、ノーベル賞の受賞者の数が少なくとも科学技術領域におけるその出身国の国際競争力を表していると考えるのは、あまりに単純すぎる。
だいたい、物理や化学や医学よりも一般に抽象度が高い能力に関わる数学や情報科学に関するノーベル賞は存在しない。
経済学や生命科学において情報科学にも関わっている人が受賞する可能性はあるが、情報科学分野でどんなに優れた業績があったとしてもそれによって評価され受賞につながるということはおそらくないだろう。

それにしても、マスメディアが必要以上に煽り立てるから、ノーベル賞とその他の学術的賞(たとえば、フィールズ賞とかチューリング賞とか)の知名度の差は歴然としている。
一種の国威発揚として、大衆に訴えかけるのは、あとはオリンピックのメダルくらいだろうか。
文化的賞(アカデミー賞とかピューリッツァ賞とか)も一応インパクトがあるけれど、一体どういう人たちがどういう基準で選んでいるのか気にならないのだろうか。

いずれにせよ、国際的賞の受賞者の数で国力を測るのは、あまり有益なこととは思えない。
それよりも、ちゃんと未来のことを考えて国家としての戦略を練るべきだろう。
その戦略とは、これからこの国が何に投資して、その成果をどのように利用し、発展させるかということである。
その成果の副産物として、国際的賞の受賞者が増えるのならそれでよいし、そうならなかったとしても、そんなことで評価を下げる必要などまったくないのである。
ES細胞(胚性幹細胞)を巡る韓国の最近の騒動を反面教師とするべきであろう(この件で、アメリカの科学雑誌「Science」の権威は失墜しただろう。イギリスの「Nature」も似たようなものらしいけど)。

これを読んでいる皆さんは、政府が2005年4月に発表した「日本21世紀ビジョン」というのをご存知だろうか。

これは竹中平蔵大臣が中心になり、日本を代表する60人の有識者が集まって議論し、8ヶ月かけて作成したものだそうである。

その中で言われている日本の25年後の未来は、以下の3点に集約される。

1.開かれた文化創造国家
日本が持つ文化や技術を世界に発信し、より魅力的で存在感のある国をつくる。
そのために、教育の質を高め、外国とより活発に交流し、物、情報の自由な流れがあふれるようにする。

2.「時持ち」が楽しむ「健康寿命80歳」
「時持ち」というのは、「金持ち」からつくられた言葉。
要するに、今後は「お金より時間」の豊かさを追求する。
そして、国民が80歳まで健康な生活を楽しめる格差のない自由で持続可能な社会をつくる。

3.豊かな公・小さな官
今後は小さな政府を目指し、官は縮小させる。
そして、公共分野で民間活力を引き出し、暮らしの安心を支える社会保障制度を充実させ、豊かな公共社会をつくる。

最近読んだ本「這い上がれない未来」(藤井厳喜著、光文社ペーパーバックス、2005)によると、これらはすべてデタラメ、つまり、実現不可能だそうである。
このビジョンに決定的に欠けているのは、国家財政の破綻を未然に防ぐため、そして、グローバリゼーションの流れの中で日本が孤立せず、同時に国家の安全を保障するための、国としての中長期的な戦略だそうである。

確かに僕のような政治には直接関係のない人間でも、今の日本の政府に明確な戦略があるとはとても思えないし、まして、その実現のために努力しているという感じがまったくしない。

上記の本によると、「国家破産を目前にして、この日本国には、もはや国民のことを真剣に考えている政治家や官僚はほぼいないと言ってよいだろう。そればかりか、大手メディアに登場するジャーナリスト、学者、評論家たちまでがそうだから、われわれはいま、本当に救いがたい状況にいる。」そうである。

こんなことも書いてあった。
「諸君は、小泉首相が「私の任期中に増税はやらない」「首相任期の延長はない」と言っている真意を、真剣に考えたことがあるだろうか?これは、「私は改革するふりをして政権を維持してきました。でも、何もできませんでした。だから、私は、逃げます。そうしないと、やがて来る財政破綻の責任を取らされるので、とりあえず2006年9月までが限度なのです」ということなのである。」


僕は国立大学の教員になるまで国益のことを考えたことはなかった。
漠然と日本の未来のことを心配したことはあったが、民間企業にいたためか、国のために何かをしたいなどと考えたことはなかった。

今の政府や官僚って本当に日本の未来のことを真剣に考えてはいないのだろうか。
竹中っていう人を僕はよく知らないけれど、この人は仮にも教育者(国立大学じゃないけど)だったのだから、自分の専門の学問領域だけでなく、教育を通して、日本の未来のことを深く考えてもよさそうなものではないのか。
ならば、こんないいかげんなビジョンを掲げていないで、さらに、問題をいちいち先送りにしないで、具体的な改革(郵政民営化もいいけど、やるんなら官僚のつけをちゃらにするな)をやったらどうなのだろう。

文部科学省の21世紀COEプログラムは、国立大学法人化と並んで財政破綻に対する小手先の対策の一つだと思われるが、あまたある研究教育機関のどこに集中的に投資するか(形だけでも)真面目に考える、という点では極めてまっとうなものである。
ただ、評価基準が、(インパクトファクターなどを考慮した)論文の数などの旧態依然のものであることがいただけないが。

そもそもCOEの運営者に求められるのは、現在の実績というより未来を予測する能力である。
もちろん未来の予測を特定の組織のメンバーのみに委ねるのは危険過ぎるから、複数の組織に分散して任せるしかない。
国家の戦略に関わることならば、外国の組織に任せるわけにはいかないだろう。
つまり、任すべきは国内のCOE、つまり大学である。

国が、国内の人材育成に投資するのは当然のことだろう。
まして、それがCOEならばなおさらである。

COEの評価は当然やるべきであるが、その基準は、未来を適切に予測しているか、そしてそのための準備をちゃんとしているか、という点に集約させるべきである。

エリート教育など特に必要ではない。
ある分野で他の人にはない、あるいは習得するコストが比較的高いスキルを持った人を必要なだけ育てられれば十分である。

僕は情報技術に関するCOEの一つに関わっている(正確には、名古屋大学の情報系COEの事業推進担当者の一人である)。

そのCOEでは何を予測したかというと、画像・音声・テキストなどのメディア技術が国家の情報インフラに不可欠になるということである。
これは、画像や音声のセンシングとデジタルコンテンツが意味的な関連を持ち、ネットワークで共有されることによって、情報インフラが目と耳と推論能力を持つことになり、社会システムの情報化を飛躍的に促進する原動力になるという話である。

そんなことは当然のことで、別に驚くことはないという人がいるかも知れないが、そういう未来を思い描くだけでなく、そのための技術を開発し、想定される問題点を考察し、人材を育成している機関が日本にどれだけあるというのだろうか。

メディア技術だけなら他の組織でも開発しているし、ある部分に関してはわれわれより進んでいるだろう。
しかし、特定のメディア処理技術にこだわっている組織ほど、視野が狭く、社会インフラの必須要素として位置づける、という、より大きな視野で技術を考察することが少ない。
そういう文脈では一般に論文が書けないからである。

では、われわれが社会学的な観点で技術を眺めているかというと答えはノーである。
しかし、技術を生み出している人間だからこそ、その未来や社会的影響を他の人よりも正確に理解できる場合がある。

たとえば、携帯電話にカメラを内蔵させることで、不必要に肖像権やプライバシーを侵害したり、一般の人があまり見たくもないものを不特定多数の人に見せようとする人が増えることは容易に予測できただろう。
それが予測できた場合に、さらにどういう技術を発明しておくべきかは、技術と社会インフラの関係を考えながら研究している人間にはきっとわかるはずである。
その場合に社会学的な知見は不可欠ではない。

企業はビジネスになりそうなことはがんばるかも知れないが、メディア技術が情報インフラの根幹を成すというのはまだまだ先の話であって、すぐにビジネスになるというものではない。
そういう先のものに全力を投入できる機関は学術的なものに限定されるだろう。

国が目指すべき方向性をまじめに考え、心配し、努力しようとするのは、ビジネスの世界にはあまり期待できないと思う。
だからこそ、アカデミアの存在意義があるのであり、その運営にお金がある程度以上かかるのであれば、国は(つまり国民は)投資すべきであり、投資するのならば、その見返りを求めるべきである。

その見返りとは、政府の21世紀ビジョンのような、根拠のないバラ色の未来予想図なんかでは断じてない。
社会が賢く、健全でいられるための社会インフラ技術、および人材である。

実際のところ、IT関連技術の実用化によって、多くの人はより賢くなったと思う。
近年の特筆すべきことの一つに、マスメディアや政府が隠蔽していたような情報に一般の人がアクセスできるようになったことがあると思う(ただし、情報の信憑性を自分で判断しなければならなくなったリスクもあるけれど、すべての情報を疑ってかかることは悪いことではないだろう)。

多くの人を(自己の努力次第で)より賢くしてくれるような技術を生み出し、国の未来のことを考えて行動してくれる人材を育成する、そういうことで国民にお返しをしてくれるところに投資するべきなのである。

投資した結果がどうなったか、しっかり見届けていただきたい。
ただし、基盤技術の開発はともかく、人材育成にはそれなりに時間がかかるのでご理解いただきたい(これは政府のような問題の先送りや逃げ切りではないので、お間違いのないように)。

投稿者 nagao : 09:24 | コメント (291) | トラックバック