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2006年05月28日

体験の新しい定義

ats.jpg

以前のエントリー「体験メディアとプライバシー」でも書いたことであるが、僕のいる研究室では、個人の体験をコンテンツとして共有し、利用する技術について研究を行っている。
日記や写真アルバムのようなものを除いて、体験をコンテンツとするための方法論はまだあまり提案されていないし、その応用に関してはさらにほとんど何も実現されていないような状態なので、研究するには良いタイミングだと思っている。
ただし、個人の行動をさまざまなセンサーを使って詳細に記録するという試みは以前からいろいろ研究されている。
問題は、映像やセンサーデータを記録するだけでは、体験をコンテンツとして利用することが困難であるということである。

また、体験に関わるデータ(それを文脈情報と呼んでいる)の記録はできるだけ暗黙的に行ったほうがよいだろう。
記憶に残るよい体験というのは、それを行っている最中にそう意識しなかったとしても、後でしみじみと思い出して人に語りたくなるものだろう。
そのような体験は、さあ記録をとるぞ、という感じでやるようなものとは限らないから、体験を振り返る段階になって改めて記録をとっていたことに気がつく、というものにするのがよいと思う。
そこで、体験の文脈情報を暗黙的に記録する仕組みを考えた。
このような仕組みを実装するのに適したものとして、屋内外両用の個人用の情報化された乗り物、つまり以前にもこのブログで紹介した個人用知的移動体AT(写真を参照)がある。

ATのさまざまなセンサーは、単にATが環境に適応するためだけではなく、搭乗者の体験に関わる情報を暗黙的に獲得するためにも利用される。
つまり、ATは環境からの情報を取り込み、体験の文脈情報として保存する。
ATは進行方向の映像以外に、左右や後方の映像も同時に記録する。
また、ATは搭乗者が降りた後でも、ヒューマントレーサと呼ばれる機能で人間を追跡することができるので、後を追いかけて撮影を続行することができる。
さすがにトイレの中まで追いかけて行って撮影するというのはやり過ぎだけれど、屋内外を移動でき、人間を乗せたり追跡したりする乗り物は、体験を記録するのに有効だろう。

ただし、個人の詳細な行動記録に体験としての意味を与えられるのは人間だけなので、体験記録のオーサリングが必要になる。
体験の文脈情報に基づくオーサリングがあって初めて体験はコンテンツとなる。
体験に関わる文脈の記録は、機械が暗黙的に行うものなので、体験者が見たもの聞いたもののみを記録するわけではない。
ゆえに、体験オーサリングの際に、こんなものが近くにあったのか、とか、ああこれはもう一度この場所に行くべきだ、とか、新しい発見をすることだろう。
直接の体験ではないけれど、自分の体験の周辺で起こったことには、他の出来事に比べると、何か自分の感覚のどこかで感じたことのように思えるだろう。
このようなテクノロジーによって、体験に新しい意味を与えることができるだろう。

つまり、体験に関わる記録に付随するすべての情報には、体験に何か新しい意味を加えるポテンシャルがあるということである。

そこで、体験(厳密には、体験の表現)を新しく定義してみようと思う。
情報技術によって拡張された体験は、見たもの聞いたもの行動したことに関わるさまざまな文脈情報に、人間が解釈を加えて整理したもの、とする。
文脈情報には、位置情報やその場所や状況でアクセスされたオンラインの情報なども含むことにする。
有名な記憶補助システムであるForget-me-notのように、時系列に沿って行動のインデックスを自動的に作成していく仕組みによって、記憶の想起と体験コンテンツのオーサリングが支援されるだろう。


また、僕たちは体験コンテンツの応用の一つとして、追体験支援というものを考えている。
これは、体験コンテンツに含まれる文脈情報に基づいて、同様の体験を再現させようというものである。
もちろん、再現といっても、実世界の環境が変化していれば同じ体験にはならないのだけど、主に物理的な移動をトレースして、同様の風景や行動を体験してもらおうということである。

まず、体験コンテンツを共有する仕組みを作り、友人や知り合いの体験を閲覧できるようにする。
次に、気に入った体験を(場合によっては複数)選択する。
そして、これから行うつもりの自己の体験をプランニングして、その結果を自分のATにダウンロードする。
ATは、位置や方向や時間や時期などに関する情報を総合して、プランニングされた体験をトレースするように行動する。
もちろん、人間がその場で臨機応変に行動しようとするのを妨げるものではない。
ただ、搭乗者が部分的な制御をATに任せようとするのならば、ATは体験に最適な場所に移動し、方向を変え、同時に搭乗者に関連情報を提示する。
それは、プランニングに利用した体験コンテンツの要素のうち、現在の行動に最も関係の深いものを映像や地図などで説明をするものである。

原体験者と同じような体験をしようと思ってその場所を訪れたにも関わらず、見るべきものを見ないで帰ってくる、ということがないように、移動や方向の制御を一部、ATに自律的に行わせることで、追体験を支援することができる。
もちろん、このような自律制御は慎重に設計する必要がある。

僕たちは自律的なマシンを作ろうとしているのではなくて、とにかく人間の意図に従うように、ただし人間の注意の及ばない部分に関しては能動的に行動する、いわば半自律マシンを作ろうとしている。
そのためには、パワードスーツのような装着型ロボットでは危険だと思うので、乗り物という形にしている。
これについては、どっちもどっちだという意見があるかも知れないけれど。


さて、このように体験を新しく定義し、体験の共有と利用に関する、さまざまな応用を可能にすることによって、人間の生活はどう変わるだろうか。
当然、ATやそれに類する体験キャプチャ・リプレイマシンがあたりまえに普及している世の中を想定しているのだけど、体験のコンテンツ化は記憶の外在化のさらなる拡張なので、人間そのものの記憶力は弱くなってしまうかも知れない。
しかし、これまでならば人に語られることなく死蔵されていったであろう貴重な体験談がネット上で永続化されていくことで、人類全体の記憶はさらに強化されていくのではないかと思う。

そして、他者の体験を柔軟に検索し閲覧するだけでなく、プランニングに利用することで、先人たちの体験を追体験できるようになるだろう。
もちろん、先に述べたように、さまざまな状況が変化していてまったく同じ体験にはならないだろうが、過去の体験と新しい体験の違いが明確になって、自分の想像力でそれを補って体験を解釈することができるだろう。
このように他者の体験を想像するというのは重要なトレーニングである。

たとえば織田信長や坂本龍馬のような歴史に偉大な足跡を残した人物の体験を真似てみたいと思う人は多いだろう。
もちろん、これは歴史書などを読んで彼らの体験を想像するしかないが、100年後にはさまざまな偉人たちの体験コンテンツ(偉人たち本人の体験というより、彼らに関して詳細な研究を行った歴史家たちの体験)の貴重なライブラリができているかも知れない。
これは、未来のデバイスと情報技術を用いた新しいタイプのコンテンツとなるだろう。

そして、そのコンテンツのユーザーが表層的に体験を真似るだけでなく、その思考の流れをたどってみることができるならば、それによって得られるものは、その人の人生にとって、とても大きな意味を持つことになると思う。

投稿者 nagao : 01:40 | トラックバック

2006年05月21日

自分史とスキル・マイニング

前回のエントリーの件で学んだことは、何歳になっても自分の愚かさというものはなくならないということだ。
こういう失敗は、これまでの人生において何度もやってしまった気がする。
「お前はいつも一言多いのだから、それによって足をすくわれることがあるだろう」というのは、かつて僕の父が僕に言った予言の一つである。
「後悔後をたたず」という現代のことわざ(参考)があるみたいだけど、なかなか学習できない自分に腹が立ってくる。

でも、このブログは主に自分のために書いているのだから、めげずに続けていこうと思う。
いつも一言多い人間がブログを書いたら、いずれはまずいことになるというのは容易に想像できることでしたけどね。
それにしても、ブログは熱くなって書いてはいけませんね。


数年前に自分史(autobiography)というのがちょっとブームになった。
その作成と閲覧のためのWebサイトもあった。
これはブログ以前のパーソナルCMSとしてはなかなか面白いツールだった。

これは自分自身の歴史(1985年大学卒業、とか)をその当時の日本や世界の状況(つくば科学万博開催、日航機墜落、ヘイゼルの悲劇など)と一緒に年表に書いていく、というものだ。
学生の間は、きわめて個人的なこと(n人めの彼女と別れた、みたいな)ばかりだけど、ある程度仕事の経験があり、今は別のことをやっていたりする人は、以前の仕事のことを事細かに書いたりするだろう。
僕は3回転職しているので、結構いろいろ書くことがある(会社の内部のことを細かく書くと怒られるかも知れないが)。

これは過去の自分に関わるイベントを時系列に並べて、その変化や経緯を見て楽しむというものなので、現在進行形の日記を読むのとは異なる面白さがあるだろう。
ついでに未来のことも年表に書いてみようと思う人がいてもおかしくはない。
過去のイベント列から規則性を見い出して未来に外挿するというのもあるし、25歳までに結婚、40歳までに自分が代表となって組織(会社とは限らない)を立ち上げる、なんて具合にただ願望を書く場合もあるだろう。

僕の友人の中嶋さん(彼は僕にブログを書くように勧めた人物の一人である)が彼の仲間たちとやっているiTimeというものも過去から未来へ自分たちの歴史を並べた年表である。
過去についてはよいとして、未来については単なる予測ごっこに過ぎないのだが、決意表明みたいなものも見え隠れしていて面白い。

不思議なもので、自分史を書いてみると、なんとなく自分のことを客観的に眺められる気がする。
彼の人生、浮き沈みが激しいな、なんて完全に他人事のように見ていられる。
彼は、ことごとく職場の上司に恵まれなかったようだな、なんて思わず同情心まで芽生えてしまう。
かと思うと、仕事や恋愛で失敗したときのことを詳しく書いていると、とたんに客観的に見れなくなって、まるで今がそのときのように思えて、何とも言えない悔しさと情けなさが、まざまざと甦ってくる。

自分史とは自分と向き合うものだから、履歴書と違って、ことさらに長所を絞り出して飾り立てようという気にはなかなかならないだろう。
つまり、できるだけ詳細に文脈を説明し、可能な限り客観的に自分の歴史を記述しようとするだろう。

そこにコンテンツとしての新たな価値が生まれてくる。
ただ自分で読んで楽しむだけでなく、共有することで、他者の特性や適性を考える重要な資料になる。
今は、ある仕事に本当に適任の人を探すのが困難であるし、大きな会社でつまらない仕事を何年も続けるより、本当に自分に向いている仕事で、雇用者に必要とされていると実感できるところで働いた方がよいのは間違いがないと思うので、仕事のマッチメイキングに関するうまい仕組みが必要であろう。
そこで、自分史をベースにして、自分のプライバシーをある程度、意図的に開示することによって、自分の人生にとって重大なフィードバックを得る機会を作る、というやり方が考えられる。

そして、自分史からその人の特性や技能、つまりスキルに関する記述が自動生成されるような仕組みが考えられるだろう。
それをスキル・マイニングと呼ぶ。
スキル・マイニングは、自分史のデータ構造とスキーマを定義して、ある程度自由度を制限して書くようにすれば、比較的容易に実現できると思う。
僕がワードローグでやっているような手法も取り入れて、フリーテキストに言語的アノテーションを付与するようにすれば、さらに解析の精度を上げられるだろう。
もし自分史の一部を(ある程度のリスクを覚悟の上で)一般公開することができれば、ソーシャルタギングやオンラインアノテーションなどの手法を用いて、自分史の中から自分以外の人にとっても価値のある情報を見つけることが可能になるかも知れない。

別にブログやSNSでいいじゃないかと思われるかも知れないが、自分史を書いて(部分的に)公開するための、より適切なツールや仕組みが必要だと思うのである。

スキル・マイニングとそれに基づくマッチメイキングは、プライバシー保護を前提としたソーシャル・サービスとして実用化されるのではないだろうか。
ただし、完全に機械任せにするのではなく、人間が適切に介入できるようにする必要があるだろう。
また、介入する人間が誰であるかは、サービスの利用者には知らせるべきであろう。

プライバシー情報を悪用されるのではないかという危険性が常につきまとうけれど、スキル・マイニングやマッチメイキングのために公開すべきデータを、ただ暗号化するだけでなく、一旦バラバラにして、ある視点で統合しなければ誰のデータかわからないようにすることによって、悪用を防ぐことはある程度可能だと思う。

例の「ウェブ進化論」(梅田望夫著 ちくま新書 2006)に、今回のエントリーの内容にも関係がある、以下のような部分があった。

ソーシャル・ネットワーキングが「巨大な人間関係マップ」を構築しているのだとすると、そこに何を入力して何を出力させる仕組みを構築すればいいのか。
そう考えて入力と出力を発想してみれば、「何かを知りたいと思ったら誰に聞けばいいか」「何かをやりたいと思ったら誰を雇えばいいか」「誰かに会いたいと思ったら誰に仲介を頼めばいいか」……。
巨大マップの存在を前提とすると、入力は目的で出力は「人のランキング」になるのが自然だ。
むろん相手が情報ではなく生身の人間なので順位付けすることへの抵抗感はあるし、検索エンジンより技術的に難しいから、こうした仕組みが実現されるかどうかはわからない。
しかしソーシャル・ネットワーキングは、「人々をテーマごと、局面ごとに評価する」という「人間検索エンジン」とも言うべき仕組みへと発展する可能性を内在しているのである。

これはもっともな意見だと思う。
ただ、SNSは人間の間の社会的関係(学生時代の友人とか職場仲間とか)に基づいてネットワークを形成するものなので、ある人にコンタクトをとるのに適切な仲介者はいるか、という質問に答えるのは比較的容易だと思うが、ある仕事に適したスキルを持っている人は誰か、という問いに、ある程度の客観性をもって答えるのは簡単ではないだろう。
もちろん、ある人が、現在どんな仕事に従事しているか、そして、その人は関連業者とどのくらい交友関係を持っているか、などの情報に基づいて、「現在の」その人の興味や技能を推し測ることはある程度可能だろう。
しかし、ある職場をリタイヤした人が、どんな「昔とった杵柄(きねづか)」を持っているか、そしてそれによって、その人を他者とどう差別化できるか、ということを知る手段を考えるのも重要だと思う。

やはり、スキル・マイニングを実現するには、現在のSNS以上の工夫が必要である。
そのためにも、自分史は有効なコンテンツになり得るだろう。

そして、ある人が真摯に綴った自分史は、きっとその人が精一杯生きた証となるだろう。
もし、自分が死んだ後でも誰かに自分のことを覚えていて欲しい、と思っているならば、自分史を書いてみるとよい。
よかったこともよくなかったことも、成功したことも失敗したことも、みんな書いてみよう。
一見、順風満帆に見える人の人生だって、おそらくさまざまな失敗があっただろうし、そういう失敗に第三者が学ぶことはとても多いと思う。
自分を覚えていて欲しいという強い思いで書かれた自分史は、きっとかなり長い間読まれていくことになるだろう。


ところで、「ウェブ進化論」でも紹介されている、社会心理学者Stanley MilgramのSmall World Phenomenonに端を発する、いわゆるsix degrees of separation(6次の隔たり)、つまり「地球上の任意の二人を選んだとき、その二人は、六人以内の人間関係(知己)で必ず結ばれている」という話は、SNSの文脈でよく引用されるようになったと思われるが、実はあまり根拠がないらしい。
Milgramの1967年の実験からはとてもそんな結論は導けないし、他の研究者によって妥当性が確認されたという話もないそうだ。
つい信じたくなる気持ちもわかるけれど、世界中の人々の間のつながりというものをそんなに単純に考えるべきではないだろう。

それにしても、僕がしっかり自分史を書いていれば、どんな状況でどんな失敗をしやすいか、自分の過去の事例に基づいて予測することができたはずなのに、と思うと、ちょっと残念である。
前回のエントリーへの反応に厳しいものが多かったのは僕が余計なことを書いてしまったせいだと思うけれど、そのこと自体が自分史に書けそうなネタになったことは間違いがない。

投稿者 nagao : 11:09 | コメント (4) | トラックバック

2006年05月15日

Webの間違った進化

前回のエントリーにも書いたが、「ウェブ進化論」(梅田望夫著 ちくま新書 2006)という本を読んだ。
そして、世の中をダメにするものの正体が少しわかったような気がした。

僕は基本的に、話題になっているからとかベストセラーだからという理由で本を手に取ることはない。
たとえば、ちょっと古いけど、「バカの壁」なんていうふざけた本は天地がひっくり返っても手に取ることはないだろう。
こんな本を書いているあんたの方がバカだよ、と思ってしまう(基本的に僕は脳科学者と呼ばれる連中はたいてい詐欺師だと思っている)。

「ウェブ進化論」に対しても初めからよい印象を持っていなかった。
著者が「ネットはコストゼロ空間だ」とかテレビで言っていたのに対しても「そんなわけないだろ」と突っ込みを入れていた。
どんな情報だって物質がなければ存在できないのだから、物質を維持していくためのコストがかかるにきまっているじゃないか。

しかし、もしこの本が情報化社会の未来を独自の視点で適切に予測しているのならば、参考にするべきだと思ったので読んでみることにした。
そして、この本は(この内容を鵜呑みにする)人間をダメにする本だと思った。

人間がダメになる最大の要因は、自分にとって重要な意思決定を他者に委ねてしまうことだと思う。

この本の著者が言うところの「ネット世界の三大法則」とやらは、

1.神の視点からの世界理解
2.ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
3.消えて失われていったはずの価値の集積

だそうである。
無論、問題なのは1である。
この著者によると、「検索エンジンの提供者は世界を俯瞰した視点で理解できる手段を持っている」ということらしい。
これはもちろん間違いである。
Web上のすべての情報のインデックスを作ったとしても世界を理解することはできない。
検索エンジンが自動的に作成したインデックスは、コンテンツの内容を理解した結果として得られるものではないからである。
何らかの統計的な結果が得られることは間違いがないが、それは世界を理解する手段にはならない。

検索エンジンは神の視点なんかではないし、そう思い込むことはとても危険である。
つい、自分の意思決定をそれに委ねたくなってしまうからだ。

コンテンツの意味を理解して何らかの推論を行うことができるのは人間だけである。
だからこそ、人間による解釈が重要なのである。
テクノロジーを重視するあまり、人間を軽視するのは非常にまずいことである。

(グーグル・ニュースに関して)グーグルのエンジニアリング担当副社長ウェイン・ロージングは、編集に人を介在させないことについて聞かれて、「人間なんか使うわけないだろう。グーグル・ニュースはエンジニアリング・ソリューションなんだから」と繰り返し述べていた。

というくだりがあった。
「人間なんか」という部分のもともとの表現がどんなものだったのかわからないが、こういうことを平然と言う奴に対して、僕は憤りを感じる。
こんな奴は、機械が編集したニュースでも読みながら、機械が作曲した音楽でも聞いていろ、と言いたい。

Webが、あるいは検索エンジンが世界を知っているなどと錯覚するのは人類の歴史にとって害にしかならないだろう。
あたりまえのことだけど、情報それ自身には意識などないし(擬人化するのは勝手だけど)、情報自身が自然淘汰を起こすことなどあり得ない。
イノベーションを起こすのは常に人間である。
解釈や決定を行うのも常に人間である。

人間をシステムの中にうまく取り込むという点においてWebはうまくいっていると思うけれど、テクノロジーが進んでもWebそのものはたいして進化しないだろう。
それよりも、Webコンテンツに対する人間の解釈を集積させて、Webコンテンツと人間の活動を含めて知識とするのがよいだろう(ただし、常に不完全な知識だけど)。
テクノロジーを無視することは最早できないけれど、人間の地道な活動を無視することもやはりできないのである。

この本が僕に教えてくれたことがある。
Webがではなく、人類が進化するために、いつかは倒さなければならない敵がいるということだ。
それは、テクノロジーを、使っているときはよくても、じわじわと人間をダメにしていく麻薬のようなものにしてしまう連中である。
それが、Googleであり、Google亡き後にも山のように現れるであろうテクノロジー偏重の企業である。


GoogleがGmailで個人のメールに広告を入れるという話の中で、Google社員のコメントと思われる以下の台詞が紹介されている。

「迷惑メールの除去やウィルスの駆除のために、電子メールの内容をその判断材料に使うのは現在の常識です。
これまでそれを誰も問題にしなかったでしょう。
電子メールへの広告挿入にも同じような技術を使います。
作業は全部コンピュータが自動的にやるんです。
そのプロセスに人間は関与させません。
悪いことをするのは人間でコンピュータではありません。
人間はこのプロセスから遠ざけます。
そのルールはがっちり守ります。
だからプライバシー侵害の危険はないのです」

おいおい、そんな説明で納得するなよ。
そのプログラムを書いている人間が悪意を持っていたらどうするんだ。
コンピュータは勝手に動いているんじゃない、人間が動かしているんだ。
そんなあたりまえのことに気がつかないほど、この著者は馬鹿なのか。
Gmailなんて、プライバシー意識のあまりない馬鹿な学生か、自分の会社に魂を奪われたGoogle社員が使っているんだと思っている(当然、僕はそんなもの使う気がしない)。

こんなことを言っている連中が、「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね」なんてことを考えているなんて怖すぎるじゃないか。
こんな連中が理想とする「世界政府」とやらができる前にきっと今の世界は滅んでいるだろう。

どうしてこれほどまでに傲慢な考え方ができるのだろう。

売れている(しかも自分の専門に近い)本に対して、敵愾心を持って批判していると思われるのは癪だけれど、やはり間違った方向に技術が進んでいくことにはできる限り抵抗していきたい。

しかし、お前にこの本を越えるくらい売れる本を書けるかと誰かに問われれば、僕は、まず間違いなく無理だと答えざるを得ない。
僕は自分の影響力の程度をわかっているつもりだし、自分の書いた本を買って読んでくれる人がどういう人かも、だいたい想像がつく。
負け惜しみに聞こえるかも知れないけれど、僕はそれでもよいと思っている。

というか、まず自分の本を完成させなければ。
連休中に執筆作業を進めようと思ったのだけど、プライベートなことでとっても忙しかったので本の完成が遅れているのです。
関係者の方々、本当に申し訳ありません。

ところで、先の本でも紹介されている「オープンコースウェア」というものがあるが、これは僕に言わせるとまったくナンセンスである。
講義内容のビデオや資料などの教材をネット上で利用可能にするという話そのものがナンセンスなのではない。
そういう活動を個人の自発的参加によってではなく、まず組織ありきでトップダウンにやっていこうという姿勢が今の時代にそぐわないと思うのである。

そんなことは教員が自分のやり方とペースで自発的に行えばいいのであり、プレッシャーをかけて組織的にやるようなことではない。
Wikipediaのような、集団に依存したコンテンツと違って、教育用のコンテンツは教育者が独自性を出せるように工夫して個人的に制作していけばよいと思う。
というわけで、僕の今書いている本も、自分では教育用コンテンツのつもりなのである。

さらに、僕のいる研究室のゼミを撮影したビデオ(教員が激怒しているさまや、罵詈雑言とも取られそうな発言の応酬が日常的に見られる風景)をメタデータ付きで一般公開する予定である(あまりにも危険な発言には「ピー」を入れて欲しいと言ってありますが。。。)。

こんなことは、多くの人を巻き込んで組織的にやろうと思ったって、そうそうできるものではない。
Web 2.0のキーワードの中にparticipation(参加)というのがあるが、これはユーザーつまり使用者ではなく、一人一人がコンテンツに積極的に関われるような参加者になろう、ということである。
ならば、つまらない組織などにこだわることなく、またネットを利用しているつもりでネットに利用されているというのでもなく、あくまで参加者として自分の判断と責任を持ってネットに関わっていくのがよいと思うのである。

まあ、今回はちょっとありがちな結論でしたね。

投稿者 nagao : 22:23 | コメント (28) | トラックバック