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2007年05月25日

責任感を持てますか

はじめに断っておきますが、これは愚痴です。

教育に対する僕の信念は「学生を鍛えることに関して妥協をしない」ということである。
教育というのは極端なことを言えば、相手に特に望まれてもいないものを与えようとするおせっかいである、と思っている。
それでも僕は学生を鍛えたいと思う。
それは僕の方が学生よりも時間的に長い範囲のことを考えることができるからである。

しかし、どうしても学生に持たせることができないものがある。
それは「責任感」である。
これだけは、学ぶという行為からは得られないと思う(働くという行為からは得られる可能性がある)。
いろいろなことがわかるようになる、あるいは(具体的なことが)できるようになることと、責任感を持てるようになることはまったく次元の異なることだからである。

責任感を持てる人間は、もともとその素養のある人間だと思う。
僕がこれまで、この人は真面目な人だと思った人はすべて責任感を持てる人だった。

責任感を持てない人が、それを持てるように、教育によって外側から変えるのは不可能だと思う。
そういう人は自分の失敗(あるいは未熟さ)をごまかすということに良心の呵責を感じない(ように見える)。
不備な点を指摘したら、けっしてそれを認めることはなく、必ず言い訳を言う。

なぜ責任感を持てないのか、それは近視眼的な経済的合理性(つまり損得勘定)で自分の行動を正当化しようとするからである。
責任感を持つ(そしてそれに基づいて行動する)ことの意味は、簡単に推論できる程度の合理性では説明できず、ある程度の時間の長さを考慮しないと理解できない。
短期的には自分は得をしない(むしろ損をする)ことを受け容れて、長い時間の後の自分および自分の所属する組織(共同体)の利益を考える人間でないと責任感を持ちえない。


学生時代にそういう合理性を超越したことをまったく考えられなくなってしまったのは、ほぼ100%育った家庭環境に起因するだろう。
つまり、親が自分の子供を責任感を持てない人間にしてしまっているのだ。

しかも、日本のマスメディアは、近視眼的な経済的合理性による自己の行動の正当化を助長しているように見える。
「勝ち組」「負け組」なんて、人間の人生の価値を単純化してしまう実に嫌な言葉だ。
あげくに「お金儲けは悪いことですか?」なんてことを臆面もなく言う奴(普通、そんなことは思っていても口には出さない)が現れ、「(それ自身は)別に何も悪くない」とほとんどの人が応じる。
それはそうだ。
金儲けが悪いなんてことを合理的に説明できる人はいない。
しかし、ちゃんと反論できないからといって、それが真理だということではない。
人間の価値観は多様なものだし、経済的合理性に逆らって行動することもある。
お金で買えないものは確かに存在する。
むしろ、お金だけで解決できる問題はかなり特殊な部類に属すると思う。
損か得かなどという考え方をすると問題が単純化されてしまい、しばしば本質から目を逸らしてしまうことになる。


僕は、学生が責任感を持てる人間かどうかよく見極めようとしている。
責任感を持てない人にプロジェクトリーダーを任せることはできないからである。
リーダーはできないけれどメンバーの一人としてはよくがんばる人も当然いるから、リーダーになれない学生がダメかというとそんなことはない。
近い将来、研究室の学生が全員、責任感を持てない人間になってしまうこともあるだろう。
その場合、僕や助教(助手)の先生がプロジェクトリーダーをやらざるを得ないのだけど、一般にとても忙しいので、きめの細かい指示(進捗管理や軌道修正など)が出せなくなってしまい、その結果、研究室が出せる成果も今よりさらに少なくなってしまうだろう。

社会に出てから、じわじわと責任感を持てるようになる、ということもあるかも知れない。
それはそれでよいことだと思うけれど、それは教育の成果ではなく、責任感を持てないでいること(それによって被る社会的な疎外感)への焦りから少しずつ自分を変えようとした結果だろうと思う。


ところで、僕はネット上の情報は話半分で読んでいることが多いが、割とよく見るサイト「痛いニュース」のコメント欄を見て、これはまさに責任感を持てない人間の本音だなと思ったものがある(例が極端な気もするが、かなりインパクトがあったので)。
それは、以下のものである(許可をもらっていないけど転載します。ごめんなさい)。

97. Posted by 1/2 2006年08月01日 14:40
女「戦争になったら戦える?人殺せる?」
男「無理」
女「日本負けそうになったら○○もやっぱ戦地に行くのかな?」
男「無理、逃げる」
女「あはwだよね、アンタそんな感じだもん」
男「俺が逃げる時は必ず迎えに行くから」
女「迎えに来る前にメールして、じゃがりこ買い込んで持って行かなくちゃいけないからw」
男「戦争中でもじゃがりこか!サラダ味か!w」

98. Posted by 2/2 2006年08月01日 14:41
女「……人を殺したくないから戦わないの?」
男「それもあるけど理由なんて幾つもあるじゃん、言葉で言うと単純で馬鹿みたいになるけど…でもまあ絶対に人は殺したくないね」
女「私が殺されそうになっても不殺の剣心?」
男「そうなったらもう俺なんか一瞬で血に飢えた人斬り抜刀斎だよ」
女「熱くてかっこいいじゃん、男だね」
男「でも多分負けるから」
女「そうだろうねwあんた本気で人を傷つけたり出来なさそうだし、腕細いしw」
男「ごめんね」
女「全然いいよ、二人とも殺されるんなら全然いいよ」
男「戦争は怖いね」
女「怖いね」

みたいな会話を電車でしてるカップルがいたのを思い出した

痛いニュース:「戦争が起こっても、戦いません!」が世界一の日本のコメント欄より


これは、日本が将来、他国と戦争状態になり、徴兵制を施行した場合のことを想定しているのだろうけど、ナンセンスな妄想だと笑うことはできない気がする。
僕は少なくともあと50年くらいは日本が他国と戦争状態になり一般市民が巻き込まれることはないと考えていたが、最近はそれについてはあまり自信が持てなくなってきた。
日本の周辺国(複数)の政府(とその教育を受けた国民)は具体的な悪意と敵意をあらわにしているようだからだ。

人(つまり敵国の兵士)を殺したくない、という感情は「自分が殺されたくない(同じ立場になりたくない)から」という気持ちによるものだと思うけれど、自分の国を護るための戦いに臨むということは、個人的感情を超越した感覚を持たないと理不尽きわまりないと感じられるだろう。
なぜ国を護るために個人が生命を危険にさらして戦わなければならないのか、合理的に説明するのは困難だろう。

まず、自分が自分の所属している共同体によって護られていることを自覚しなければならない。
これまでずっと誰かに護られてきたのだから今度は誰かを護っていかなければならない。
今という時間だけに捉われないで、過去と未来を考えられる人間でないと責任感を持つことはできないだろう。
今の自分という狭い視野から離れて、自分を中心とした時間と空間の広がりを感じられるようになるとわかると思う。
自分が国家という共同体の中で護られてきたということを。

現在の日本では徴兵制が施行されていないので、今のところ国を護るために戦うかどうかは個人が選択できるけれど、戦争状態になって国が志願兵を募った場合、僕は自分の責任を果たすために志願するだろうと思う。
そして、自分の知識や技術を活かせる方法を模索するだろうと思う。
僕には、前の世代から託された責任があるし、その責任を果たし、次の世代に引き継いでもらわなければならない。


責任感を持てないということは、長い時間の流れの中で自分の存在する意味を自覚できないし、ふわふわした気分になってしまうだろう。
そんな気分で生きていくなんて何だかすごく居心地が悪い気がする。

前の世代から何かを託されて、次の世代の誰かのために仕事をしていくことは、自分が何のために生きているのかを確認するための一つの方法だと思うのだけれど、そんなことを「責任感を持てない人」に言ってみたところで無駄なのだろうか。

自分の人生がつまらなく思えてきたなら、自分の所属する共同体の中で自分が何をして何をされているかを考えてみるとよい。
一人で生きていける人間はいないのだから、頼るのも頼られるのも自然なことなのである。
だから、「他人に迷惑をかけなければ自分は何をしてもよい」なんて考えるのをやめよう。
誰でもただ存在するだけで他の誰かの迷惑になっていることもあるだろうし、かけてもよい迷惑というのもあるのである。

人に頼り、人に頼られて生きていくことはつまらないことではない。
人生の彩り(いろどり)は自分一人で決めていくものではないからである。
ほんの少しでいいから、人に頼っている分より人に頼られている分が多くなるように行動してみよう。
それは責任感を持てるようになるためのはじめの一歩なのである。

投稿者 nagao : 23:24 | コメント (280) | トラックバック

2007年05月18日

未来の話ができますか(後編)

人間の脳をダイレクトにコンピュータにつなげるという研究があるらしい。
血管内に挿入して治療に用いるカテーテルを電極として用いて、首のあたりから脳に侵入させるのだそうである。
電極を脳の神経系に直接つなげるわけではないと思うが、頭の皮膚に貼り付けるタイプの電極と違って、頭蓋骨によって減衰することはないし、かなり高い精度で脳内の電気信号を測定できるだろう。
昔から、ブレインマシンインタフェースという研究領域はあったけれど、脳波や脳内の血流を測定して精神生理学的状態を推論しマシンの制御に用いる、という一方向的なものが多かった。
しかし、電極を脳に挿入すれば、おそらく双方向の情報伝達ができるだろう。
ロボトミー(lobotomy)のように人間の感情や意識に多大な影響を与えることになるだろう。

その結果、人間の記憶がマシンを経由して統合されるだろう。
そして、記憶の統合された複数の人間はまるで一人の人間のようにふるまうことになる、かも知れない。
人類が一人の存在のようになれば、いらぬ誤解や確執がなくなって世界も平和になるだろうし、大変結構なことだ、ということのようだ。

しかし、ずいぶんとやばそうな話である。
おそらく僕の生きているうちには実現しないだろうが、僕はこの話に不気味なものを感じる。
この研究の過程で、死んだり精神崩壊を起こしたりする者が現れるのではないかと思う。
自らの研究に殉ずるという態度(お金で被験者を雇ったりするならマッドサイエンティストなので論外だが)は、覚悟としては立派だと思うが、どうも称賛する気にはならない。

命を危険にさらすような研究は、たとえ成果に高い価値があっても、よい研究ではないと思う。
装着型ロボットのようなパワードスーツに関する研究も装着者にダメージを与える可能性がある(暴走しそうになったら自動的に外れるようになっているのなら問題ないけれど)。
僕らの作っている個人用の乗り物も似たようなものだと思われるかも知れないが、電源スイッチを切れば確実に停止するし、スピードも制限されているので、人間が機械の影響を受けないように分離することは容易である。
機械と人間の境目を明確にしておき、必要に応じて、容易につないだり切り離したりできるようにしておくべきだと思う(それでも、携帯電話のように依存症になる人が現れるかも知れないが)。


さて、僕は人間の知能を増幅させるマシンを作りたいと思っているが、それは決して冒頭で述べたような、脳に対するダイレクトな手段によってではない。

人間の知能をコンテンツを使って増幅させるのである。
それって普通じゃん、と思われるかも知れないが、コンテンツは人間の知能を増幅させることも、それを停滞させることもできるのである。

まず、基本的な前提として、頭は使えば使うほどよくなる、というのがある。
これを否定すると後が続かなくなるので、とりあえず認めておこう。

頭を使う最も一般的な方法は本を読むことである。
だから、本を読めば読むほど頭はよくなる。
多分、漫画はダメだと思う。
理由はうまく言えないが、とにかく漫画はいくら読んでも頭はよくならないと思う。
内容によるのではないかと言われるかも知れないし、確かに内容が高度で、深く考えさせられたりする漫画もあるだろうけれど、やはり漫画では頭のトレーニングにはならないと思う。
ただ、漫画を読んで、それについて論じるような文章を書いていれば、それは頭をよくすることにつながると思う。

自らの頭をよくしようという意欲のないものは、そのために自分の労力という対価を支払う動機がないので、おそらくこのようなトレーニングを一切やらないだろう。
そういう人は貴重な自分の未来を目の前の時間に二足三文で売り払ってしまっているのだと思う。

最近読んだ本で、大きくうなずくと同時に暗澹たる気持ちにさせられたものがある。
その本にはこんなことが書いてあった。

「現在の教育の問題は、単に子どもたちの学力が低下しているということではありません。
それが子どもたちの怠惰の帰結であるのではなく、努力の成果である、ということです。
学力の低下が子どもの側の怠惰や注意散漫の結果であるのなら、その補正はたかだか教育技術の次元の問題にすぎません。
しかし、現実に一定数の子どもたちが学びを放棄し、学びから逃走することから自己有能感や達成感を得ているということになると(そして、その数が増えつつあるとすると)、それは教育技術やカリキュラムの改訂といったテクニカルなレベルでは解決できることではありません。
社会のあり方全体についての身を抉る(えぐる)ような考察を通じてしか、この問題に取り組む道は見えてこないでしょう。」
(内田樹著「下流志向 学ばない子どもたち・働かない若者たち」講談社 2007 116ページより)

僕は教育者のはしくれとして、この状況は看過できない。
この話が本当なら、いわゆるアメリカ式の経済合理主義はいつか日本人のほとんどを下流化させることになるだろう。


コンテンツを使って知能を増幅させるというのは、ただコンテンツを消費して頭を鍛えるということだけではない。
人間がコンテンツをうまく活用して効率よく知識活動を行えるように、コンテンツと人間とのマッチメイキングを行うのである。
これは、いわゆる検索とは少し異なる。
明示的な検索要求が必要な状況は多少はあるかも知れないが、たいていの場合、暗黙的に行う。
そのために必要なことは、その人間のことをよく理解することである。

コンテンツの理解は人間や世界の理解に必ずつながる。
架空の物語を綴った小説であっても、その理解は必ず著者を理解することにつながるだろう。

そして、人間のことをよく理解するために有効なコンテンツは、いわゆるライフログである(もちろん、普通のブログでもよいけれど)。
ライフログは、要するに人間の行動に関するコンテンツである。

これに関連して、最近よく話題になるSNSの一種として、Twitterと呼ばれる、「今していること」を簡単なやり方で公開することで、友達とのつながりを感じ合える仕組みがある。
僕は、最初こんなことをする理由がよくわからなかった。
知り合いに「これ何の役に立つの?」と聞いたら、「何の役に立つかなんていう質問は愚問ですよ」と言われた。
「何の役に立つか」は自分で判断するべきだし、その程度の判断ができない奴に説明しても無駄だから、だそうである。
むしろ、「どうしたら自分の役に立てられるか」を考えればよい、ということだろう。
ちょっとカチンとくる言い方だが、まったくその通りだと思う。

「今していること」の集積がまさにライフログなのだから、Twitterユーザーのログを集めていけば自然にライフログが作れるだろう。
僕は、体験の文脈に興味があるので、映像や音声のバイナリーデータが欲しいところだけど、別にそんなものを必要としない人がいてもおかしくはない。

さて、考えるべきはその後のことである。
おそらく、人間が自分のライフログを閲覧・編集している過程で、機械がその内容を解析するようなツールが発明されるだろう。
また、他者のライフログを引用して、自分の生活に役立てる人やそのためのツールが現れるだろう。
ライフログの意味を構成するオントロジーを作成する人もきっといるだろう。
その先に、セマンティックソーシャルネットワークと呼べるようなものが見えてくるだろう。
それは、人間の今をつなぐためのものではなく、時間を超えて、見知らぬ人間同士を結び付けるものになるだろう。

そして、人生のあらゆる局面において、参考になる(かも知れない)コンテンツが推薦されるようになるだろう。
人間の思考や生活習慣などは、時代が変わっても本質的な部分はあまり変わっていないと思われるから、かなり古いコンテンツ(ライフログ)でも読むべきものはきっとあるだろう(たとえば、これは正確にはライフログではないが、源氏物語の光源氏に現代人が学ぶべきことはいろいろあると思う)。
人間は、推薦されたコンテンツを読むべきものと信じられるならば、よく読んで、これからの行動を考えるとよい。
その行動もライフログとして残せば、他の人にとっての有益なコンテンツになるかも知れない。
文脈が異なるのだから、過去の行動をそのまま再現すればよい、というわけにはいかない。
ならば、その行動のエッセンスは一体何なのかを考えないと応用がきかないだろう。

そのようなライフログに関わるコンテンツの作成と利用の正の循環が、人間の知能を増幅させることにつながるだろう。
まさに、そこに僕たちの考える未来がある。

ライフログがあたりまえのものになれば、人は自然に変わっていくと思う。
それはこれまでよりも客観的に自分のことを眺めることができるようになるからである。
人は自分の行動を振り返れば、自分がどんな生き方をしてきたのか改めて知ることになる。
未来を予測するために重要なことは、過去をよく知ることである。
しかし、残念ながら人間は過去をすぐ忘れてしまう。
だから、いつでも簡単に自分の過去を確認できる仕組みが必要なのである。


僕は、人間が機械の力を借りることによって自ら考えることを放棄するような未来は志向していない。
人間は大いに考えるべきだし、精一杯考えた結果を共有して、その先のことを考える布石にするべきだと思っている。

1000年以上前の人間の体験を見て、その発想や行動力に感心し、それを参考にして今後の生き方を考えるなんて、歴史というものを持っている人類というのは実に素晴しい存在だと思うのは僕だけだろうか。

投稿者 nagao : 15:29 | コメント (273) | トラックバック

2007年05月07日

未来の話ができますか(前編)

連休中にやろうと思っていたことの半分もできなくて残念です。
ワードローグのコーディングも途中で投げ出したままだし、本の原稿も完成してないし。。。やれやれです。


つくづく未来の予測はむずかしいと思う。

PDF(Portable Document Format)やドローツールのIllustratorで有名なAdobe(アドビシステムズ社)が、SVG(Scalable Vector Graphics)のサポートを停止する(正確には、SVG表示ソフトのSVG Viewerに関して、2007年末にサポートを、2008年末に配布を終了する)、という発表をしたのを聞いて、「しまった、読みを間違えた」と思ったのである。
SVGは、PDFとほぼ同じ表現能力を持つ、Webブラウザ向けのベクターグラフィック言語のことである。

実は、SVGが発表され、Adobeがそのビューア(Webブラウザのプラグイン)を公開したときに、これは結構使えると思ったのである。
僕のいる研究室では、かつてMathMLという形式で記述された数式をSVGに変換して表示するコンバータを作ろうとしていた(結局、MathMLの仕様が複雑すぎるので断念した)。
また、MusicXMLという形式で記述された楽譜をSVGに変換して表示し、楽譜の任意の要素(音符や休符、歌詞の一部など)に対してアノテーション(情報付与)できるシステムを作っていた。

また、僕が仕様を決め、僕のいる研究室で制作したデジタル認知科学辞典というコンテンツは、図や数式とテキストをシームレスに表示するためにSVGを利用している。
このSVGは、辞典項目のXMLデータ(辞典の構造をXMLタグで記述したもの)から自動変換したものである(SVGもXMLデータである)。
つまり、辞典の各項目をXMLで構造化して、タイプの異なる情報をシームレスに表示するためにSVGを利用したのである。
デジタル認知科学辞典のCD-ROM版は、書籍のおまけではなく、独立した商品(電子書籍)として企画されたものなので、この決断はとても重要だった。
CD-ROM版はサーバーアクセスを前提としていないので、変換後のSVGファイル(および検索用ファイル)のみ収録している。
トラブルの元になるので、データベースや変換ソフトは入れていない(検索にはシェアウェアのPDIC(Personal Dictionary)を利用している)。
販売元(および書籍版の認知科学辞典の出版元)の共立出版は、僕の考えを全面的に認めてくれた。
ちなみに、これのサポートページも僕が管理している。

そのコンテンツがもう見れなくなってしまうかも知れないのである。
実際、僕が今使っているWindows VistaのIE 7.0では、すでに見れなくなっている。
こうなる危険性は最初から考慮すべきだったのに、僕はPDFの思想を継承してさらに柔軟にしたSVGがそう簡単に廃れるはずはないと考えてしまったのである。
こうなると、CD-ROMの改訂版をSVG抜きで作り直さざるを得なくなってしまった。
SVGに含まれている情報から項目間のリンク情報を分離し、JPEG画像とHTMLタグに変換してしまえばよいのであるが、ベクター情報がなくなってしまい、拡大縮小が柔軟にできなくなるのが実にもったいない(ちなみに、CD-ROMには、2種類の文字サイズのSVGデータが収録されている)。


実は僕は、およそテキストで表現できる情報なら何でもかんでも、とにかくXMLにしてデータベース化するべきだ、という考えを持っている。
そのため、研究室の学生にXMLデータベースの利用を義務付けたことがあった。
僕らの作るシステムは、ネットでの共有を前提としたものなのだから、データを保存するときに、ローカルファイルに保存するようなやり方はやってはいけない(イメージやビデオなどの場合は仕方がないが)、必ずデータベースに登録するようにしなさい、と言ってきた。
実際、僕たちが研究室Webサイトで公開している論文はすべてXML形式で記述され(アブストラクトのみのものもある)、データベースに保存されている(ブラウザで見るときは、XSLTをサーバー側で適用してHTML化して配信している。論文のURLの最後に?xsl=falseを付けると変換前のXMLのソースが出力される)。

データベースを使うこと自体は今でも間違っていないと思っているが、XMLデータベースを使うという試みはことごとく失敗した。
遅い、重い(メモリーを食う)、よく落ちる、の3拍子がそろっていたからだ。
これは単に実装の問題ではないのではないかと思う。
XMLデータベースに未来があると思っていたのは、誤りだったと今は思う。

それで、XMLデータベースを使うのをやめて、PostgreSQLやMySQLなどのリレーショナルデータベースのみを使うようにした。
現在は、それでシステムが安定して動いている。
ただし、XMLを使うという方針は変えていない。

僕がまだSony CSLにいた1998年に、(その翌年に8年ぶりに戻ることになった)IBM東京基礎研究所に所属する研究者が作ったXML Parser for Java(これは後にApacheに寄贈されXercesの原型となった)というのを使って、Webドキュメントに言語的アノテーションのタグを付ける仕組みを作ったりしていた。
それ以降、ずっとXMLを基盤にしたシステムを作ってきた。

XMLは、技術的にはたいしたものではないと思うが(よくネットで話題になる情報技術のほとんどが実はたいしたものではないということが多いが)、およそ価値のある情報というものは人間が見てもわかるような(つまりテキストエディタで編集可能な)構造化がなされているべきだ、という基本的な思想が重要なのだと思う。
その構造がデータを賢く使う上で役に立つものであることももちろん重要である。
意図的に一部の情報を暗号化して読めなくする場合を除いて、データの構造がデータそれ自身を見ればだいたいわかるようになっていることは情報処理の透明性を上げるという点できわめて本質的である。

だから、僕はXMLを将来的にも意味のあるものと考え、システム設計の基本に据えたのである。
僕らの作っているシステムは(少なくともそれによって作成・生成・蓄積・利用されるデータは)あと10年くらい楽にもつだろうと考えている(ただし、前述のSVGを除く)。
ちなみに、XMLタグセットのセマンティクスを記述するXMLスキーマは必要ないと思っている(これには異論のある人もたくさんいそうだけど)。
あるタグセットが何のために設計されたかはスキーマを見ても理解できないし、アプリケーションによってタグの解釈(利用法)が異なっていても構わないだろう。
誰かが以前に「XMLデータはそれ自身がアフォーダンスを持っている」つまり、XMLタグはそのデータをどう使ってもらいたいかを自ら示している、というニュアンスのことを言っていたが、その通りだろう。
XMLスキーマなんか使わなくても、事例としてのXMLデータをよく見れば、何をどう使うべきかはわかってくるし、それに基づいてアプリケーションを自由に設計すればよいのである(XMLスキーマはその作業を楽にしてくれる、という主張もあると思うが)。
タグごとにデータ型(整数か文字列か、など)が定義されていた方がありがたいことは確かにあるが、XMLの使われ方全般の中では瑣末な問題だと思っている。
それよりも重要なのは、データ型などよりはるかに複雑な、コンテンツそのもののセマンティクスを記述することである。
これには、もう少しややこしい仕組みが必要なのだが、その話はここでは省略する。


たとえいくつかの予測が当たらなかったからといって、予測するのをあきらめてしまうのでは研究者失格である。
可能な限り妥当な未来の予測をして、その未来のための準備をしておくのが研究という仕事の真髄だと思う。
ダイナブック構想やMacintochのモデルになったAltoというマシンで有名なアラン・ケイは「未来を予測する最良の方法はそれを発明することだ」と言ったらしいが、問題は「発明や発案だけでは未来にはつながらない」ということだ。
やはり個人の強い意志や信念をもって発明に臨んだとしても、それだけではどうにもならない。
社会がそれを受け容れ、あたりまえのものとして定着し、なくてはならないものとしなければ、発明が未来に影響を与えたとは言えない。


さて、情報技術の未来に関して、これから起こるであろうことを、懲りずにちょっと書いてみようと思う。

僕がこれから大きく変わるだろうと思っていることは、デジタル情報の再利用という概念である。
Web上のコンテンツが永続化されれば、それはコピー&ペーストではない仕組みで再利用されるだろう。
また、動画コンテンツもコピー(ダウンロード)して再配布するようなやり方ではなくなり、もっとリーガルで柔軟なやり方になるだろう。

永続化するというのがなかなか困難なように思われるかも知れないが、たとえば、こんな話である。

ひとたび、ネットで情報を不特定多数に向けて開示した場合、明らかなミスによるもの(たとえば、情報漏洩)でもない限り、下手に削除などをするとかえってまずいことになることがある。
それよりも、一度出してしまった情報は潔くそのままにして、その後に訂正したくなった部分に関して、変更部分とその変更理由を付加情報として別に用意し、閲覧時に統合されるようにしておくのがよいだろう。
もちろん、誤字脱字などの単純なケアレスミスに関しては、理由を書く必要もなく、(直接の編集ではなく)閲覧時に動的に置き換わるようにして、やはり付加情報として管理するのがよいだろう。
こうすれば、Web魚拓なんかを取られて、つまらない詮索で痛くもない腹をさぐられるようなことはなくなるだろう。
ネットに情報を出す場合は、ある程度の覚悟と責任をもって行うべきなのである。
たとえ、憶測による間違った情報を不用意に出してしまったとしても、誰かが見ているかも知れないから、断りなく引っ込めて、なかったことにするわけにはいかない。
元の情報に加えて、訂正およびその理由を出していくことによって、きちんとおとしまえをつけなければならないのである。

CGM(Consumer Generated Media)的なものはそれでもよいが、コマーシャル(商用)コンテンツはそうはいかない、という人がいるかも知れない。
動画コンテンツや音楽コンテンツを永続化することの困難さは理解できなくもないけれど、ネット資源を今より効率的に使う技術はきっと生まれるだろうし、著作権の考え方も変化するだろうから、Amazonのようなロングテール戦略を試みてみるべきだと思う。
つまり、ヒット商品も時間がたてばニッチ商品になるのだから、いっそすべてニッチ商品としてビジネスを考えればよいのである。
Amazonと違うのは、ネット上のコンテンツはそのままでは商品になりにくいことだと思うが、自由に閲覧可能のものが商品の一部になっているとか、クオリティ(解像度や音質など)を落としているとか、パッケージメディアのバージョンには特典が付いてくるとか、いろいろやりようがあるだろう。
また、いっそオンラインのコンテンツはすべて商品を宣伝するための広告と考えてもよいと思う。
それなら(コピペではない)引用を通じて、口コミでコンテンツの評判が広がっていくことは歓迎すべきことだろう(よい評判は直接商品の売り上げに貢献し、悪い評判は次のコンテンツを作るときの注意事項になる)。
だから、これからコンテンツを作るときは、ネットで永続化するつもりで、出演者などと契約を結んでおくのがよいと思う。

永続化は再利用の概念と仕組みを変え、人々に責任と覚悟を求め、著作権のあり方も変え、コンテンツ関連ビジネスをロングテール化させるだろう。
そして、僕たちが考えているのは、さらにその先の未来のことなのである。

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