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2007年05月25日

責任感を持てますか

はじめに断っておきますが、これは愚痴です。

教育に対する僕の信念は「学生を鍛えることに関して妥協をしない」ということである。
教育というのは極端なことを言えば、相手に特に望まれてもいないものを与えようとするおせっかいである、と思っている。
それでも僕は学生を鍛えたいと思う。
それは僕の方が学生よりも時間的に長い範囲のことを考えることができるからである。

しかし、どうしても学生に持たせることができないものがある。
それは「責任感」である。
これだけは、学ぶという行為からは得られないと思う(働くという行為からは得られる可能性がある)。
いろいろなことがわかるようになる、あるいは(具体的なことが)できるようになることと、責任感を持てるようになることはまったく次元の異なることだからである。

責任感を持てる人間は、もともとその素養のある人間だと思う。
僕がこれまで、この人は真面目な人だと思った人はすべて責任感を持てる人だった。

責任感を持てない人が、それを持てるように、教育によって外側から変えるのは不可能だと思う。
そういう人は自分の失敗(あるいは未熟さ)をごまかすということに良心の呵責を感じない(ように見える)。
不備な点を指摘したら、けっしてそれを認めることはなく、必ず言い訳を言う。

なぜ責任感を持てないのか、それは近視眼的な経済的合理性(つまり損得勘定)で自分の行動を正当化しようとするからである。
責任感を持つ(そしてそれに基づいて行動する)ことの意味は、簡単に推論できる程度の合理性では説明できず、ある程度の時間の長さを考慮しないと理解できない。
短期的には自分は得をしない(むしろ損をする)ことを受け容れて、長い時間の後の自分および自分の所属する組織(共同体)の利益を考える人間でないと責任感を持ちえない。


学生時代にそういう合理性を超越したことをまったく考えられなくなってしまったのは、ほぼ100%育った家庭環境に起因するだろう。
つまり、親が自分の子供を責任感を持てない人間にしてしまっているのだ。

しかも、日本のマスメディアは、近視眼的な経済的合理性による自己の行動の正当化を助長しているように見える。
「勝ち組」「負け組」なんて、人間の人生の価値を単純化してしまう実に嫌な言葉だ。
あげくに「お金儲けは悪いことですか?」なんてことを臆面もなく言う奴(普通、そんなことは思っていても口には出さない)が現れ、「(それ自身は)別に何も悪くない」とほとんどの人が応じる。
それはそうだ。
金儲けが悪いなんてことを合理的に説明できる人はいない。
しかし、ちゃんと反論できないからといって、それが真理だということではない。
人間の価値観は多様なものだし、経済的合理性に逆らって行動することもある。
お金で買えないものは確かに存在する。
むしろ、お金だけで解決できる問題はかなり特殊な部類に属すると思う。
損か得かなどという考え方をすると問題が単純化されてしまい、しばしば本質から目を逸らしてしまうことになる。


僕は、学生が責任感を持てる人間かどうかよく見極めようとしている。
責任感を持てない人にプロジェクトリーダーを任せることはできないからである。
リーダーはできないけれどメンバーの一人としてはよくがんばる人も当然いるから、リーダーになれない学生がダメかというとそんなことはない。
近い将来、研究室の学生が全員、責任感を持てない人間になってしまうこともあるだろう。
その場合、僕や助教(助手)の先生がプロジェクトリーダーをやらざるを得ないのだけど、一般にとても忙しいので、きめの細かい指示(進捗管理や軌道修正など)が出せなくなってしまい、その結果、研究室が出せる成果も今よりさらに少なくなってしまうだろう。

社会に出てから、じわじわと責任感を持てるようになる、ということもあるかも知れない。
それはそれでよいことだと思うけれど、それは教育の成果ではなく、責任感を持てないでいること(それによって被る社会的な疎外感)への焦りから少しずつ自分を変えようとした結果だろうと思う。


ところで、僕はネット上の情報は話半分で読んでいることが多いが、割とよく見るサイト「痛いニュース」のコメント欄を見て、これはまさに責任感を持てない人間の本音だなと思ったものがある(例が極端な気もするが、かなりインパクトがあったので)。
それは、以下のものである(許可をもらっていないけど転載します。ごめんなさい)。

97. Posted by 1/2 2006年08月01日 14:40
女「戦争になったら戦える?人殺せる?」
男「無理」
女「日本負けそうになったら○○もやっぱ戦地に行くのかな?」
男「無理、逃げる」
女「あはwだよね、アンタそんな感じだもん」
男「俺が逃げる時は必ず迎えに行くから」
女「迎えに来る前にメールして、じゃがりこ買い込んで持って行かなくちゃいけないからw」
男「戦争中でもじゃがりこか!サラダ味か!w」

98. Posted by 2/2 2006年08月01日 14:41
女「……人を殺したくないから戦わないの?」
男「それもあるけど理由なんて幾つもあるじゃん、言葉で言うと単純で馬鹿みたいになるけど…でもまあ絶対に人は殺したくないね」
女「私が殺されそうになっても不殺の剣心?」
男「そうなったらもう俺なんか一瞬で血に飢えた人斬り抜刀斎だよ」
女「熱くてかっこいいじゃん、男だね」
男「でも多分負けるから」
女「そうだろうねwあんた本気で人を傷つけたり出来なさそうだし、腕細いしw」
男「ごめんね」
女「全然いいよ、二人とも殺されるんなら全然いいよ」
男「戦争は怖いね」
女「怖いね」

みたいな会話を電車でしてるカップルがいたのを思い出した

痛いニュース:「戦争が起こっても、戦いません!」が世界一の日本のコメント欄より


これは、日本が将来、他国と戦争状態になり、徴兵制を施行した場合のことを想定しているのだろうけど、ナンセンスな妄想だと笑うことはできない気がする。
僕は少なくともあと50年くらいは日本が他国と戦争状態になり一般市民が巻き込まれることはないと考えていたが、最近はそれについてはあまり自信が持てなくなってきた。
日本の周辺国(複数)の政府(とその教育を受けた国民)は具体的な悪意と敵意をあらわにしているようだからだ。

人(つまり敵国の兵士)を殺したくない、という感情は「自分が殺されたくない(同じ立場になりたくない)から」という気持ちによるものだと思うけれど、自分の国を護るための戦いに臨むということは、個人的感情を超越した感覚を持たないと理不尽きわまりないと感じられるだろう。
なぜ国を護るために個人が生命を危険にさらして戦わなければならないのか、合理的に説明するのは困難だろう。

まず、自分が自分の所属している共同体によって護られていることを自覚しなければならない。
これまでずっと誰かに護られてきたのだから今度は誰かを護っていかなければならない。
今という時間だけに捉われないで、過去と未来を考えられる人間でないと責任感を持つことはできないだろう。
今の自分という狭い視野から離れて、自分を中心とした時間と空間の広がりを感じられるようになるとわかると思う。
自分が国家という共同体の中で護られてきたということを。

現在の日本では徴兵制が施行されていないので、今のところ国を護るために戦うかどうかは個人が選択できるけれど、戦争状態になって国が志願兵を募った場合、僕は自分の責任を果たすために志願するだろうと思う。
そして、自分の知識や技術を活かせる方法を模索するだろうと思う。
僕には、前の世代から託された責任があるし、その責任を果たし、次の世代に引き継いでもらわなければならない。


責任感を持てないということは、長い時間の流れの中で自分の存在する意味を自覚できないし、ふわふわした気分になってしまうだろう。
そんな気分で生きていくなんて何だかすごく居心地が悪い気がする。

前の世代から何かを託されて、次の世代の誰かのために仕事をしていくことは、自分が何のために生きているのかを確認するための一つの方法だと思うのだけれど、そんなことを「責任感を持てない人」に言ってみたところで無駄なのだろうか。

自分の人生がつまらなく思えてきたなら、自分の所属する共同体の中で自分が何をして何をされているかを考えてみるとよい。
一人で生きていける人間はいないのだから、頼るのも頼られるのも自然なことなのである。
だから、「他人に迷惑をかけなければ自分は何をしてもよい」なんて考えるのをやめよう。
誰でもただ存在するだけで他の誰かの迷惑になっていることもあるだろうし、かけてもよい迷惑というのもあるのである。

人に頼り、人に頼られて生きていくことはつまらないことではない。
人生の彩り(いろどり)は自分一人で決めていくものではないからである。
ほんの少しでいいから、人に頼っている分より人に頼られている分が多くなるように行動してみよう。
それは責任感を持てるようになるためのはじめの一歩なのである。

投稿者 nagao : 2007年05月25日 23:24

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コメント

自分が何不自由ない平和な状態にあって、

> 戦争状態になって国が志願兵を募った場合、僕は自分の責任を果たすために志願するだろうと思う。

というような、具体的な行動を伴わない、そう思わない人間は非国民であるかのような言外の意味をにおわす発言をすること。

それが無責任への第一歩ではないでしょうか。

投稿者 通りすがり : 2007年07月03日 21:26

人に頼り、人に頼られて生きていくことはつまらないことではない。
人生の彩り(いろどり)は自分一人で決めていくものではないからである。

なかなか素敵な言葉ですね。
私は自分自身が足の疾患があり、色々悩み苦しんでいて、誰も助けてくれないみたいな気持ちに陥っていましたが、でもよく考えたら理解してくれている人は一部いる。

でも、どこかでそれは人に依存しているかも、とか色々考えたりしました。
でも、多少なりとも、助けてもらったり、自分があいてが困っているときに助けるのは普通ですものね。

投稿者 ヤマダ : 2007年09月12日 01:47

こんにちは。教育産業で働いているものです。
「責任感」と検索して、このブログにたどりつきました。


>短期的には自分は得をしない(むしろ損をする)ことを受け容れて、長い時間の後の自分および自分の所属する組織(共同体)の利益を考える人間でないと責任感を持ちえない。

うんうん、と大きく肯きました。
素敵なブログに感謝します。

と同時に、家庭ではなく、外部からの教育によって、伝えられるところは伝えていきたい…
1%でもいいから、伝えていきたい…
そう思っています。

超短期の利益と短期の利益を比較することで、短期・長期の利益よりもわかりやすくなる事例があるのでは…と模索しつつ。

トラックバックもかけさせていただきますね。

投稿者 Z会スタッフ:寺西 : 2007年09月15日 19:06

通りすがりさん、
「何不自由ない」というのは言い過ぎだと思いますが、「(現在の)自分が平和な状態にある」というのはその通りだと思います。
しかし、それでも「(日本が主体的に参加する)戦争が起こったら、(日本を守るための活動に)積極的に参加するつもりだ」というのは本心で言っています。
あなたが私を無責任だと言えるのは、私が「実際にそのような行動をとらなかったとき」だと思います。
ブログに書いた段階で無責任と言われるのは心外です。
また、私のように考えない人は、非国民なわけではなくて、自分の国(の未来)に対して無責任(だと私が思っている)だけのことです。

投稿者 nagao : 2007年09月17日 21:36

ヤマダさん、
コメントありがとうございます。
一方的に他人に依存しているときに、心が辛くなるのは自然なことだと思います。
そして、いつか人に頼られるようになって、自分がその人に何かしてあげられるようになったら、少しずつ自分の心が楽になっていくと思います。
そういう連鎖で人と社会の関係が築かれていくのだと思います。
ですから、一時、人にすごく依存していたとしても、それを恥じる必要はまったくないと思います。

投稿者 nagao : 2007年09月17日 21:44

寺西さん、
コメントありがとうございます。
責任感そのものを教育によって外部から与えることはできない、と私は思っていますが、責任感にいつかつながっていくであろう倫理感とか社会に対する接し方などを、教育によって子供が理解できるようにすることは可能だと思います。
そして、そういう教育は早ければ早いほどよいと思います。
是非、そういうことを教えていっていただけるとよいと思います。
無論、私もがんばります。

投稿者 nagao : 2007年09月17日 21:54

いつか人に頼られるようになって、自分がその人に何かしてあげられるようになったら、少しずつ自分の心が楽になっていくと思います。

優しいお言葉、ありがとうございます。
今の自分は、相手に何かされたら何かをしたいとは思っております。

投稿者 ヤマダ : 2007年09月28日 21:36

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