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2007年11月24日

無限のパラドックス(後編)

しばらく間が空いてしまいましたが前回の続きの解答編です。
前回のエントリーにコメントをいただいた方はありがとうございました(以下を読めばわかりますが、いただいた答えはみな合っています)。

一つ目の問題。

交換した方が確かに有利なのだ。
あなたが賞品を受け取る可能性は、AをCに交換することで3つに1つから3つに2つに増えたのだ。
その理由は、空の箱を開けたのが、「賞品がどの箱にあるか知っている」わたしだからである。
あなたがAを選んだとき、わたしはBを開けるかCを開けるかを選択し、それが空であることを示すことができる。
わたしがこの空の箱を示すことは、とても重大な付加的情報を与えることになる。
なぜなら、わたしは「常に」空の箱を示すことができるのだから。


二つ目の問題。

最も賢い男がAだったとしよう。
彼は次のように推論しただろう。
わたしの帽子が赤であるとしよう。このときBは、もし自分の帽子も赤ならば、Cが緑の帽子を少なくとも1つ見たことを表す動作、すなわち手を挙げる動作をしないことを知っている。
つまり、もしわたしの帽子が赤ならば、Bは自分の帽子が緑であることを知るだろう。
しかし、Bは自分の帽子が緑であることを知らないのだから、わたしの帽子は赤ではあり得ない。
つまり、わたしの帽子は緑だ。


三つ目の問題。

すでに部屋にいる宿泊客が次のように移動すればよいのである。
各々の宿泊客は自分の部屋の番号を2倍した番号の部屋に移動するのである。
つまり、部屋1の客は部屋2へ、部屋2の客は部屋4へ、部屋3の客は部屋6へ、...、部屋nの客は部屋2nへ移動するという具合である。
これらすべての移動は当然同時に行われる。
そして、移動したあとには、すべての偶数番の部屋は埋まり、すべての無限に多い奇数番の部屋は空きになっている。
そこで、最初の新しいお客は最初の奇数番の部屋1へ、次のお客は部屋3へ、次は部屋5へ、n番目の新しいお客は2n-1へ入ればよいのである。


最後の問題。

もしその床屋が自分の髭を剃るのなら、自分で自分の髭を剃る人の髭を剃ることになり、彼のルールに違反することになる。
もし自分の髭を剃らないとすると、彼は自分で髭を剃らない村人の一人になり、そのような村人すべての髭を剃らなければならないので、自分の髭も剃らなければならないことになる。
これはやはり矛盾ということになる。
結局、この床屋はどちらを選択しても、自分で決めたルールを遵守することはできない。
つまり、そのようなルールを守れる床屋は存在し得ないということである。


これだけの問題では、「無限のパラドックス」という本の魅力を説明しきれないのであるが、ゲオルク・カントールの集合論および無限の概念や、クルト・ゲーデルの不完全性定理を理解するのに役立つ面白い論理パズルが満載されている。

数学というのは、ものごとを高い抽象度で考えることができる便利な道具だと思う。
特に論理的思考法をトレーニングすれば、他者に自分の考え方を適切に伝えたり、相手を説得するのに有効だろう。
僕は、初等教育において数学と国語をしっかり教えることが何より(特に英語や社会科より)重要だと思っている。
また、言語の運用に関する理論(それを語用論(pragmatics)という)は、文法よりメタな概念であるが、それを理解するには論理学を学ぶのが一番よいと思う。
それによって、他者が論理的思考をしていると仮定すると、どのようなコミュニケーションのやり方が有効であるのか判断できるだろう。

ただし、話している相手が「論理的思考ができる」という仮定が段々成り立たなくなってきている気がする今日この頃である(これに関しては、いつか「ゆとりの恐怖」というテーマでブログを書こうと思っている)。

投稿者 nagao : 20:39 | コメント (202) | トラックバック

2007年11月14日

無限のパラドックス(前編)

どうも気分が明るくならない今日この頃ですが、仕事ばかりではうんざりなので、久しぶりにブログを書きます。


最近、白揚社という出版社から電話があった。
この会社は、僕の大学生時代に大いに話題になった名著「ゲーデル,エッシャー,バッハ」(ダグラス・ホフスタッター著 1985)の日本語版を出版したところである。
僕が1994年に翻訳した「無限のパラドックス」(原題Satan, Cantor, and Infinity(悪魔、カントール、そして無限)。レイモンド・スマリヤン著)という本を「スマリヤンの無限の論理パズル」と改題してペーパーバックで(オリジナルはハードカバー)再出版する予定だということである。
僕はそれを聞いて何となくうれしくなった。

この本は僕が一人で翻訳したのだが、当時から好きな本だったのである。
今の僕からはとても考えられないことなのだが、270ページの原著(翻訳は286ページ)を一か月程度で翻訳したのである。
これを訳していた当時は、博士論文を書いていたりした時期で実はとても忙しかったにも関わらずである。
ちなみに、1990年に出版された同じスマリヤンの前著「決定不能の論理パズル」(原題Forever Undecided(永遠に決まらない))の翻訳には約半年間(しかも友人と共訳)、2001年に出版された「スマリヤンの究極の論理パズル」(原題The Riddle of Scheherazade(シェラザードのなぞなぞ))の翻訳には約1年間(しかも家内と共訳)も要している。

また、この本に関しては珍しく、いつも出版社にお任せしていた(一応、案は出すけれど)本のタイトルを自分で決めさせてもらった。
だから、「無限のパラドックス」というタイトルにはとても愛着がある。
ちなみに、自分でタイトルをつけさせてもらった他の訳書には、1996年に出版された「人はなぜ話すのか」(原題Tell Me A Story。ロジャー・シャンク著)がある。

気に入っていたタイトルが変わってしまって残念だけれど、ペーパーバックになって再び出版されるのはとても喜ばしいことである。
このブログを読んでいるみなさんにも是非読んでいただきたいと思う。

有名なマーティン・ガードナーの「数学ゲーム」もかなり面白いけれど、レイモンド・スマリヤンのパズル・ブックにはまる人は結構いるのではないかと思う。


ここで、「無限のパラドックス」に出てくるパズル問題をいくつか紹介しよう(解答は後編で述べる)。

一つ目は確率にまつわる問題である。

閉じた箱が3つある。それらをA、B、Cと呼ぼう。その中の一つには賞品が入っており、残りは空である。
あなたは無作為に一つの箱を取ったとする。それをAだとしよう。
あなたが箱を開けて賞品があるかどうか見る前に、わたしが残りの二つのうち一つを開けたとする。
それをBだとしよう。そして、それが空であることをあなたに知らせたとする。
そこで、あなたにはあるチャンスが与えられる。
あなたが持っている箱、つまりAの中身を取るか、あるいは残った一つの箱、つまりCの中身と交換するか、である。
ここで問題は、「AをCと交換することによって確率的なメリットはあるだろうか」ということである。


二つ目は他者の推論を推論するというメタ推論に関する問題である。

3人の男、A、B、Cが目隠しされて、それぞれの頭には赤か緑の帽子が置かれていることを聞かされる。
そして、目隠しが外され、3人は他の2人の帽子を見ることができるようになる。
しかし、自分自身の帽子の色を知ることはできない。
実際、3人にはすべて緑の帽子が与えられている。
3人は、もし少なくとも1つの緑の帽子が見えたら手を挙げるように、と言われる。
この場合は、当然3人とも手を挙げた。
そして3人は、もし自分の帽子の色がわかったら手を降ろすように、と言われる。
しばらく間があってから、3人のうちで最も賢いものが手を降ろした。
彼はどうやって、自分の帽子の色を知ったのだろうか。


三つ目の問題は、無限に関するものである。

ヒルベルトのホテルには、無限に多くの部屋がある。
部屋には、部屋1、部屋2、部屋3、...、部屋n、...と連続の番号が付けられている。
そのような部屋が一列に並んでいるホテルを想像してほしい。
ある場所を起点に、右方向に無限に部屋が並んでいるのだ。
始まりの部屋はあるのだが、終わりの部屋はない。
このホテルが満室だとする。それぞれの部屋には1人ずつお客がいる。
そこに、新たに無限に多くのお客が泊りにきたとする。
彼らもすでに部屋にいるお客たちも相部屋にはなりたくないとする。
しかし、すべてのお客たちが、もし頼まれれば1回だけ部屋を変わってもいいと思うくらいには協力的だとする。
新しくやってきた無限のお客たちは、どうしたらこのホテルに泊まれるだろうか。


最後は、有名なパラドックスに関する問題である。

ある村には、自分の髭を自分で剃らない人の髭だけを剃るという床屋がいる。
その床屋は、自分で自分の髭を剃る人の髭は剃らないが、自分で自分の髭を剃らない人の髭はすべて剃るということである。
では、その床屋は自分の髭を剃るだろうか、剃らないだろうか。


答えがわかった方は、コメントしていただけると幸いです。
というわけで、後編をお楽しみに。

投稿者 nagao : 03:16 | コメント (316) | トラックバック

2007年11月03日

人の死のいたみ

先日(10月29日)、僕の目の前で人が亡くなった。
正確には、僕のいたところのすぐ近くでということで、僕の視線が向いていたわけではない。
僕はそのとき、地下鉄の駅のホームで、ベンチに座ってiPodで音楽を聴きながら本を読んでいた。
電車が来たな、と思って顔を上げたところ、ベンチの隣に座っていた人が僕の方を向いて何かを伝えようとしていた。
僕はヘッドフォンを外して話を聞いたのだが、たった今線路に人が落ちてそのまま轢かれてしまったということらしい(かなり興奮されていたので最初は言葉がよく聞き取れなかった)。
電車は駅に入る途中で停止し、駅員が数人駆けつけてきた。
僕の隣にいた人は、その内の一人に目撃者として連絡先を聞かれていた。
電車内の乗客たちは、状況がわからないようだったが、何人かがドアを叩いて駅員にドアを開けるように要求していた。
僕は茫然として立ちすくんでいた。
駅員が何人か線路に降りて車両の周囲を歩き回って調べていた。
その内の一人が「靴が見つかりました」と言ったのを聞いて、僕は急に恐ろしくなった。
車内にいた乗客たちと違って、僕は線路の状況を自分の目で確認しようと思えばできたのだけど、体が動かなかった。
しばらくして先頭の車両のドアが開き、乗客がホームに降りてきて、ぞろぞろと階段を上がっていった。
僕は自分が何の役にも立たないことを悟って、駅員の一人に「外に出てもいいですか」と聞いてから、階段を上がって外に出た。
外では複数のサイレンの音が響いて、救急車や救助員を乗せた車が到着したところだった。
担架を持った数人の救助員が駅に入って行った。
僕は、何も気づけなかったこと、その場にいて何の役にも立てなかったことを激しく悔やんでいた。
後で聞いたところ、そのとき線路に落ちたのは70歳くらいの女性で、ほどなく亡くなったそうである。
線路に落ちた理由はわからないそうだが、傍に誰かがいたら落ちなくてすんだかも知れない。
そう考えると、心が痛む。
それ以来、僕は駅のホームで本を読んではいない。


上の話とは直接の関係はないが、先日僕の昔の知り合いが亡くなった。
そのことについて、mixi経由で知人から連絡があったが、僕はかなり以前からmixiを利用していなかったのでパスワードがなかなか思い出せず、結局あまり詳しく状況を知ることができなかった。
このブログエントリーでも語られているように、彼はまだ若くて、英気と覇気に溢れ、能力も高い人物だった。
僕が以前に所属していた研究所で、(そのとき彼はまだ学生だったが)一緒に働いていた。
その当時、その研究所には、優秀な研究者や学生がたくさん集まっていて、活気に満ちていた。
僕はそういう環境がとても好きだった。
彼とは仕事(研究)上の接点は特になかったけれど、マシンやネットワークのメンテナンス等でいろいろとお世話になった(当時研究していた対話システムのデモ用のデータを提供してくれたこともあった)。
もし今の僕に彼ほどの能力があったら、僕たちのやっている研究などとっくに実用化していただろう。

彼の急逝についてはにわかには信じられないのだけど、細かいことを詮索するのはやめて、静かに彼の死を悼むことにしよう。
僕がその研究所を辞めてからは会うことはなかったけれど、みんながんばっているんだろうなあと思っていた。
実際、彼の専門分野(インターネットプロトコル)では彼はかなり有名らしい。
志半ばで倒れるのはさぞ無念だっただろうと思う。

itojun、僕は君のことを忘れてはいませんし、これからも忘れないと思います。
君の熱意や真面目さは周りの人にとてもよい影響を与えてきたと思いますから、君の遺志を継ごうとするものはきっと少なくないでしょう。
今は、お疲れさまでした、と言わせてください。
心からご冥福をお祈りします。

投稿者 nagao : 22:09 | コメント (23) | トラックバック