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2007年12月17日

マルチディスプレイ対応のWiiリモコン

構想から半年にしてようやくWiiリモコン用のオリジナルデバイスが完成しました。
赤外線にIDがエンコードされた新型センサーバーと、Wiiリモコンに装着する赤外線デコーダです。
赤外線デコーダは、Wiiリモコンの拡張コントローラとして動作します。
以下の写真をご覧ください。
上が新型センサーバー(上から2点バージョンと1点バージョン。電源はUSBから取ります)、下がデコーダ付きリモコンです。

led_devices.jpg
wiiremote_irdecoder.jpg

デコーダのケーブル(Wiiのヌンチャクのものを切ってコネクタを付けたもの。ヌンチャクと接続して使うこともできます)が筺体の横に接続されている理由は、リモコンを持つときにケーブルが邪魔にならないようにするためであり、またデコーダの後方には新しいセンサーをマイコンに接続できるようにするための拡張用コネクタが付いているからです。
デコーダの基板は以下の写真のようになっています。
ちなみに、マイコンはATMEL社のATMEGA168を使っています。

decoder_device.jpg

これを使うとWiiリモコンを複数のディスプレイに対応させることができます。
つまり、1つのリモコンで複数のディスプレイ上のオブジェクトを操作できるということです。

たとえば、僕たちの開発したWiiポインタというソフトウェアでは、Wiiリモコンを任意の画面に向けるだけで、向けた画面上に点を表示してリモコンの向きに応じて移動させ、PowerPointなどの任意のWindowsアプリケーション用のポインタとして利用することができます(ただし、マウスカーソルとは異なり、そのままではクリック等はできません)。
前回のエントリーで紹介したゲームはこのソフトウェアを利用しています。
ちなみに、リモコンの十字キーを使って、点の大きさや色を変化させることができます。
また、Aボタンを押しながらリモコンを動かすと、点の移動の軌跡が表示されるため、線を描くこともできます。
以下の写真は、大型液晶ディスプレイ上で楕円を描いてみたところです。

single_display.jpg

Wiiと違って、ポインタの回転を考慮しないので、赤外線の光の点は1点だけで十分です(上記の1点バージョンのセンサーバーを利用します)。
また、以下の写真のように、1個のLEDデバイス(センサーバー)を2台のディスプレイの中間付近に置いて、2つのディスプレイを連続的にポイントすることができます(無論、それぞれのディスプレイと接続しているPCはネットワークでつながっていないとダメです)。
この写真では、2つのディスプレイにまたがった楕円を描いています。

double_display.jpg

ディスプレイが隣接していない場合は、赤外線LEDのIDを使って識別できますから、複数のディスプレイをどのように配置するかは自由です。
つまり、ディスプレイをどのように配置しても、同じリモコンでそれらの画面をすべてポイントできます。

以下の写真では、LEDはすべて前方に向けられていますが、それぞれのLEDの向きを左右に少し変えられるようになっているため、ディスプレイ周辺のかなり広い範囲からポイントできるようになります(ちなみに、ユーザーがディスプレイから5m程度離れても大丈夫です)。

led_subdisplay.jpg

ポインタにはユーザーID(番号)が付与されています。
これによって、複数ユーザーのポインタを識別して、誰がどこをポイントしているのかを自動的に知ることができます。
ちなみに、Wiiでは同時に操作できるのは4人(4リモコン)までですが、僕たちのソフトウェアではマシンパワーが許す限り何人でも同時に操作できます(一応、12人までは実際に試してみました)。

もちろん、ポイントするだけでなく、プログラム次第でマウスのように画面上のオブジェクトを操作することもできます。
ただし、複数のユーザーが同時にリモコンを使うため、通常のマウスとは異なる制御が必要です。
つまり、誰が今、画面上のオブジェクトを操作する権利があるのかを決めないと、ある人のやろうとしたことを別の人がキャンセルしてしまうことなどが発生して、意図した通りに操作できなくなってしまいます。
その操作権を決めるやり方は、アプリケーションを開発する人が自由に決められるように、全員のWiiリモコンの状態をすべてモニターしてフィードバックできるようなAPI(Application Programming Interface)を用意しています。

特にJavaプログラミングに精通している人なら、簡単にマルチディスプレイ・マルチポインタのアプリケーションが作れるでしょう。
前回のエントリーの「ポイスタ」のような(あれはマルチディスプレイではありませんでしたが)、大型スクリーンやマルチディスプレイを利用した多人数参加ゲームなども、僕たちの仕組みを使えば比較的簡単に作れます。

Wii(あるいはそれに類するマシン)はきっと家庭の中だけでなく、駅や大型店舗などの公共の場でも使われるようになると思います。
そして、いつか自分専用のポインタ型リモコンを持ち歩く(ケータイに組み込まれるのでもよいですが)ようになるのではないかと思っています(利用する前にユーザー登録をする必要があると思いますが)。

さて、僕は、Wiiのテクノロジーをベースに作られた、このマルチユーザー・マルチディスプレイ・ダイレクトマニピュレーションの仕組みが一般に利用できるようにしたいと思っています。
そのために、ここでご紹介したデバイスが量産され安価で販売されるようになるとよいと思います(今のところ、LED装置とデコーダを合わせて1セット9600円もかかるんですよ。高すぎますよね)。
もし任天堂がその気になれば、赤外線デコーダをWiiリモコンに組み込むことなど造作もないでしょう。
Wiiを複数台購入している人(ちなみに僕のいる研究室には3台あります)もいるでしょうから、複数のWiiを連携させて、それぞれの表示画面を連動させたり、同じリモコンがどちらのWii用にもシームレスに使えるような仕組みを提供するのも悪くないと思います。

僕はこの技術を広く普及させて、複数の人が複数のディスプレイ上での操作を連携させて、コラボラティブに面白いこと(絵を描いたり、音楽を演奏したり、動画を編集したり、など)をやっていく、という文化を浸透させたいと考えています。
うまくいくとよいのですが、どうなることやら。
これを読んでいる方からのアドバイスなどがいただけるとありがたいです。
どうぞよろしくお願いします。

投稿者 nagao : 00:08 | コメント (285) | トラックバック

2007年12月15日

ポインタ危機一髪

僕のいる研究室で制作された、多人数が同時にWiiリモコンを使って行うゲーム「ポインタ危機一髪(別名、ポインタスター。略称、ポイスタ)」をご紹介します。
名前からおわかりのように、これは「黒ひげ危機一発(なぜ危機一髪じゃないの?)」という有名なおもちゃにインスパイヤされています。
Wiiは4人まで同時に遊べますが、このゲームは基本的にいくらでも人数が増やせるようになっています。
ただし、同時に遊べる人数はマシンパワー(および画面の解像度)に依存します。

以下の写真は、研究室のメンバー12人が一緒に遊んでいる様子です(写真には一部の人しか写っていません)。

poista-playing.jpg

実は、これは多人数が同時にポインタを使って画面上で操作するとどのくらい迷惑なことになるか(自分のやっていることの邪魔になるか)を調べるための一つの実験なのです。
それぞれのポインタは色分けされており、場合によっては移動の軌跡を残すことができるので、自分がどのポインタを操作しているかを知るのは比較的容易です。

このゲームの操作法はきわめて単純です。
自分のポインタで画面上のカードのどれかをポイントしてAボタンでクリックするのみです。
同じカードをもう一度クリックすると、選択が解除され、他のカードを選択できるようになります。
ただし、他の人がすでにポイントあるいは選択しているカードは選択できません。

全員がカードを選択した後に、一斉にすべてのカードが裏返って、当たりとはずれが判明します。
当たりを選んだポインタは生き残り、はずれの場合はそれ以降ゲームに参加できなくなります。
1ラウンドにつき3人ずつ脱落していき、最後の3人から1人だけ生き残ります。
その人が優勝です。

たとえば、最初は、以下の図のように、参加者全員分のカードが選択可能で、ポイントするとカードにポインタと同じ色の枠線が付きます。
各ポインタには、IDが関連付けられています。
IDからそのポインタ(リモコン)の所有者情報を検索することができます。
以下の図の画面の右側には、参加者のIDと名前が表示されています。

poista_1.jpg

ポイントしながらAボタンを押すと、選択できます。
このとき、以下の図のように、カードの画像が変化します。
これは早いもの勝ちで、先にポイントした人が優先され、他の人が同じカードをポイントしても選択できません。
先にポイントした人がポインタを移動しない限り、他の人には選択権がありません。
また、選択した後は、ポインタを移動しても選択が解除されません。
同じ人が同じカード上でもう一度Aボタンを押すと、選択は解除され、さらにポインタを移動すると、他の人が選択可能になります。
以下の図の画面の右側には、カードを選択した参加者のIDと名前がイタリックで表示されています。

poista_2.jpg

全員が選択し終わると、以下の図のように、カードが裏返り、当たりかはずれかがわかります。
この図から、どのカードがはずれかすぐにわかりますよね。

poista_4.jpg

以下の図のように、はずれカードはそれ以降デッドカード(つまり、存在しないもの)になります。
はずれのカードを選んだ人は、以後、このゲームの続きに参加できなくなります(右側のリストから名前が減っていることがわかると思います)。
はずれた人のポインタは、一応表示はされますが、カードをポイントしても枠線が表示されず、選択もできません。

poista_5.jpg

その後は同様に、参加者が減り、デッドカードが増えていきます。
最終ラウンドは、以下の図のようになります。

poista_10.jpg

結果は、以下の図の通りです。

poista_11.jpg

これで、優勝者が決まりました。
優勝者は、以下の図のように、ダイアログウィンドウとファンファーレによって称えられます。

poista_12.jpg

このように、大型ディスプレイ上で多人数が同時にポインタを操作し、各ポインタにはそのユーザーの情報が関連付けられており、全員の操作履歴をリアルタイムに蓄積して利用する、というソフトウェアが作成できました。

今回の例はゲームでしたが、このソフトウェアはポインタを使って操作するさまざまなアプリケーションに適用できます。
また、ユーザーが使用するデバイスはWiiリモコンですが、カメラと無線機能(できればBluetooth)を持った携帯型デバイスなら同じ機能のものが作れるでしょう。
ちなみに、プログラミング環境はJavaです(一部、Bluetoothドライバとの連携のためにC++を使っています)。

僕たちは、このリモコンとポインタの仕組みを研究室のメンバー全員が参加する会議に応用しています。
これについては別の機会に詳しく書いてみたいと思います。

マルチユーザーで大型ディスプレイ上のダイレクトマニピュレーションを行うアプリケーションにご興味のある方はぜひご連絡ください。

投稿者 nagao : 12:09 | コメント (333) | トラックバック

2007年12月12日

コンテンツ・フューチャー(その6)

前回のエントリーからの続きです。

国家とコンテンツの関係に関する話題があった。
やはり、比較の対象となるのはアメリカである。

「アメリカはね。 最近聞いた話では「アメリカンメモリー」という巨大なグランドデザインの元に、各州と各企業がコンソーシアムを組んで、アーカイブ事業を興そうとしているんですよ。 それで、電気とか自動車とかのそれぞれの企業が、例えば電気というアーカイブや車というアーカイブを作る。 また、通信というアーカイブを作る。 あるいは、川というアーカイブを作る。 それを全部「アメリカ人の記憶」という名前のアーカイブにする。 そこがちょっとアメリカのいやらしいところだけど、これが上手いんだよ、あっちは。 日本でそんなことやったらさ、「愛国者」とかって言われるわけだよね。 「右翼ですか?」みたいな。 「日本人の記憶」とか普通の意味で理解されない。 だけど、一旦そういうことをしないと、日本も動かないかもしれない。」(271ページ上段)

あらゆるモノの歴史というコンテンツはもちろん重要だけれど、それよりも僕は人間の行動や体験の記録の方に興味がある。
日本という国家の(行動や体験を集めた)ライフログを作ろう、という動きは将来起こるだろうか。
国家のライフログというのは、国の代表者である政治家や官僚のライフログを含むことになると思うけど、そんなものを作ったら、醜悪な実態が明らかになるか、やらせばかりで無意味なものになるか、のどちらかだから建設的なものは何もない、という人が多いかも知れない(そもそも実現不能という人が最も多いだろうけど)。
情報公開やアカウンタビリティなんて言葉はもうあまり意味を成さないのだろうか。

最後に、ネットの状況とその問題点を端的に示した次の言葉を引用しよう。

「インターネットみたいな、ユーザーの力が強く、ある種コントロールしにくいメディアが登場したことによって、技術の進化速度が制度を追い越してしまった部分ってありますよね。」(226ページ下段)

そうかも知れないけれど、混沌とした社会にはある種の秩序が必要だし、何らかのコントロールが機能しなければ国家的な戦略など不可能だから、新しい時代のコンテンツには従来のコピーコントロールなんかとは異なる新しいコントロールが必要だと思う。
引用や複製をコントロールするのはオリジナルの制作者(CGMの場合はコミュニケーションの主体となるユーザー)であり、国が行うのはメタなコントロール(当事者間でうまくコントロールできないときのコントロールなど)である。
国(つまり政府)が当てにならない、というのなら頼らなければいいし、ルールが明確にならないと動きにくい、というのなら適切な国家機関に働きかければよい(外交が絡むととたんに弱腰になるのは早く何とかして欲しい)。
それは単に運用の問題ではなく、見えにくい問題を見えやすくする技術の問題でもある。
それによって、大きく水をあけられてしまったアメリカのメディア戦略にキャッチアップし、さらに独自の方向性でコンテンツを進化させられるようになると思う。

結局、この本を読んでわかったことは、「日本のメディア・コンテンツビジネスはアメリカのような時代(と技術)の変化に適応できる柔軟さを持たないがゆえに、放送と通信の融合も著作権の問題もうまく処理できずに、かなり危なくなってきている。しかも、従来のマスメディアのやり方ではユーザーの多様な興味に対応できずにアテンションを獲得しにくくなっている。しかし、CGMのように、ユーザーコミュニケーションを積極的に取り込んでいく、日本ならではの優位性もあるのだから、そこを伸ばしていかなければならない」ということくらいである。

まあ、その程度の認識を読者に与えられればよいのならそれでいいけれど、僕としては、(日本ならではの)コンテンツの進化を促進するテクノロジーのポイントはここだ、ということを明確に語って欲しかった。
制度のまずさを技術で補えるのなら、官僚や政治家が制度を見直さざるを得ないような、圧倒的な技術とそれに基づくコンテンツをできるだけたくさん提示していくのがよいのだろう。

コミュニケーションの集積がいつのまにかコンテンツになっている場合を除いて、コンテンツを公開・消費するということは知財(知的財産)を共有するということであることをよく認識すべきだと思う。
コンテンツは誰にでも作れるものだし、経験やスキルの差も作品からは曖昧にしかわからないのだから、その価値を判断するのが容易ではないことはわかる。
しかし、それでも自分のコンテンツは自分でしっかりコントロールすべきだし、他者のコンテンツも注意深く利用すべきだと思う。
最近読んだ新聞にこんなことが書いてあった(ちなみに、以下の久保田さんという人は、以前に「コンテンツがタダになる日は来るか」というエントリーの最後で引用した意見を述べた人である)。

「「知財立国を掲げるなら、法規制以上に情報の取捨選択や活用への感度を高める教育が重要」とコンピュータソフトウェア著作権協会の久保田裕専務理事は強調する。 7月施行の改正著作権法は権利侵害の厳罰化などを定めたが、「独創性などの著作権の価値を尊重する土壌があってこそ法の実効性も高まる」。」(日本経済新聞 2007年12月3日朝刊16面より)

やはり自分が参考にしたオリジナルのコンテンツは尊重すべきだし、自分の作品から常にオリジナルに辿り着けるように技術的な工夫を凝らすべきだと思う。


以下は余談であるが、この本の著者の一人は、あとがきの中でこう書いている。

「コンテンツは生活必需品ではない。極論すれば我々の生活に「なくても構わないもの」だ。しかし、同時に「ないと寂しい」のがコンテンツだとも思う。」(310ページ)

これには思いっきり反論しておこう。
もはや人間はコンテンツなしには生きられない。
コンテンツは水や食料や衣服と同様に生活必需品である。
なぜなら、人間はコンテンツを消費しないと賢くなれないからだ。
ある程度賢くなければ人間は長く生きられないだろう。

ある意味、人類の歴史そのものがコンテンツなのだ。
歴史を知らないものは未来を語れない(たとえ語ったとしてもほとんど意味を成さない)。
未来を展望できない人間は今をただ目的もなく無為に過ごすことになる。
「勤勉は未来を、怠慢は今を豊かにする」という言葉があるそうだ。
「なくても構わないけどないと寂しいのがコンテンツ」なんて程度の認識でコンテンツを語らないで欲しい。

僕は、人間がコンテンツを利用してより賢くなるための技術を研究している。
コンテンツが衰退すると人間の知能の進化も停滞してしまうと考えているからである。

ちなみに、僕が今書いている本のタイトルは「近未来のコンテンツ・テクノロジー(仮題)」である。
来年中には何とかして出版にこぎつけたいと思っています。

投稿者 nagao : 00:07 | コメント (234) | トラックバック

2007年12月10日

コンテンツ・フューチャー(その5)

前回のエントリーからの続きです。

新しいコンテンツを生み出すクリエイティビティに関して、こんなことを言っている研究者(兼メディアアーティストらしい)がいた。

「「創作性があるかないかを客観的に見分ける方法はあるんだろうか」みたいなことを考えたんですね。 一番はじめに考えたのはモデルの複雑さ。 これで判定できるんじゃないかと。 例えば接続されているモジュールの数とか、接続されるルールの複雑さとかです。 で、実際にやってみて見分けることができないってことがわかった。 ものすごくシンプルなのに、創作的であるとしか言いようがないような発見をもたらしているモデルもある。 結局、何が創作性なんだろうとかと。 1つあり得るな、と思ったのは「ほかの人に影響を与えたかどうか?」を基準として考えてみるのはどうだろうかってことなんです。 あるモデルを元にして、ほかの人が影響を受けて、あるモデルが別のモデルに発展していったとすると、その「親」に当たるモデルには一番創作性があるんじゃないか。 それで「ユニークID」の機能を実装したんですね。 誰かがモデルを作って投稿する際に、そのモデルに一意のIDを埋め込むんですよ。 それをデータベース上で管理する。 そうするとダウンロードしたモデルには全部そのIDが埋め込まれているようになる。 それで何か変更して再投稿すると、変更した瞬間に新しいIDが生成される。 そうすると、元のIDと新しいIDの両方が存在しているから、その2つのタグ付けによってデータベース上で管理されるんですね。 なので、このモデルはこのモデルから派生したものだっていうことがシステムが検知できるようになっている。 これは、再利用みたいなものを促進する部分もあるし、再利用したときに自動的にその親がトレースできる仕組みを入れたいと思って作ったんですね。 (中略) ここまでやれば創作性をある程度客観的に判定できるようになるかな、と思ってやってみたんですが、やっぱりそんなことはなかったんですよ。 なぜかっていうと、ある一定以上に創作性が高いと、あまりにも創作的すぎて真似しようという気が起こらなくなるんです。」(207ページ下段)

コンテンツの部分引用と派生のネットワークによって、オリジナルコンテンツの影響力の程度を客観的に測定する、というのは悪くないと思う。
それがダイレクトにはコンテンツの「創作性の高さ」の判断には結びつかない、というのは一見正しいようだけど、本当にそうかな、という気がする。
確かに、新しいことを生み出したり発見したからこそ多くの人に引用されるのだ、とは言い切れないかも知れない。
「陳腐なものはそれに効果があるからこそ多用される。多用されるからこそ陳腐になる」という言葉があるけれど、やはりその「陳腐なもの」にもオリジナルがあるはずである。
だから、そのオリジナル(最初に考案されたバージョン)が何であるかわかるのなら、その派生物が「陳腐なもの」となっていった過程を見ることで、オリジナルの「創作性の高さ」を議論することはできると思う。
コンテンツが生み出されてからの長い時間を考慮することで、派生による「影響力の程度」とその「創作性の高さ」を結びつけることはきっとできると思う。

そして、コンテンツを中心としたそのユーザーの活動とクリエイティビティに関して、次のような意見があった。

「おかしいと思うんだったら、不満に感じているんだったら直してください。 直す余地があるんですからと。 そういう仕組み……というかユーザーに対するアクションの「選択肢」を最初からドーンと提示すればいいわけですね。 (中略) ユーザーに自発的に手を動かさせることで、批判を封じつつ、クリエイティブにつながる行動をさせる。 確かにそれはメリットが多いし、理にかなっている。」(213ページ上段)

やはり、ネット時代のコンテンツは、ユーザーを積極的に巻き込んでいくものになっていくのだろう。
「貢献者としてのユーザー(User as Contributor)」というWeb 2.0のスローガンが示すように、ユーザーはコンテンツをよりよいものに変えていくことができるのである。
だから、コンテンツはユーザーによって補足・修正や評価を付け加えられていって成長するための手段を持たなければならないのである。
そういうものを僕はアノテーションと呼んでいる。

一方で、大多数の意見や行動のみに頼ってものごとを評価することへの懸念ももちろんある。
たとえば、こんな意見があった。

「目利きとか評価者とか番付とかが、アクセス数や素人の感想に置き換わっちゃった。 ページランクも別にそのサイトに対する純粋な評価ではないよね。 映画評や書評も、アマチュアの感想が出ること自体はかまわないんだけど、じゃあ「太鼓判」はどこにあるのか。 (中略) 良い意味でのオーソリティが失われたわけですよね。 かつて、西洋のルネッサンスとか、日本の桃山とか浮世絵時代とか、あるいはバロックとか、シュールレアリズムの時代とかダダとか、かなりアナーキーな状態で文化が流行したときでも、やっぱり目利きという存在はどの時代にもいたんですね。 それが確かに現在では失われている。 ただ、僕は別にネット的なフラットなものを完全に否定しているわけじゃなくて、フラットにすることの良さと、山脈のように頂上をいくつか作るものと、両方必要だと思ってるんです。 僕はそれを「ピークモーメント」って呼んでいるんだけど。 例えば、ミシュランの星の権威が崩れてフラットになったら、意味がないわけですよ。 「ミシュランのメンバーはどうも十数人いるようだ」というくらいの幻想の中でガチガチの評価をしてくれているから良いんだけど、これが全部ページランクになったら、どの店が美味いのかまったくわからなくなりますからね。 ページランクで「美味しい」って判断されるのと、食べ続けたヤツが「美味しい」っていうのは違うからね。 それは書評でもそうですね。」(267ページ下段)

これにはまったく同感である。
ネットが破壊した既存の伝統の中に歴史的な権威というものがある。
よいものには理由があるのだけど、それを説明するのに時間がかかるから、権威というものでとりあえず納得してもらうのである。
もちろん、権威は安定なものではないから、人間の努力によって維持していかなければならない。
権威にあぐらをかいて努力を忘れたら、すぐにその権威は失墜する。
その努力にはかなりのコストがかかるから、自動化や合理化によってそれを補おうとする。
そして自動化や合理化の部分ばかりに注力した結果、ページランクみたいなものが出てきて、もともと何を守ろうとしていたのかわからなくなってしまい、権威なんてものは取るに足らないものだなどと短絡的に考える人が出てきた。
人間はほおっておくとたいてい楽な方へ流れるから、維持するのにそれなりの努力を伴うものは段々見捨てられていってしまうだろう。
たとえば、ミシュランガイドを批判するのは簡単だけど、ミシュランのメンバーがそれらの批判に真摯な態度で対応していかないと、いずれその権威は失墜してしまうだろう。
マスメディアがやっていくべきことも、短期的な視聴者のアテンションの獲得などではなくて、ある種の権威を維持・回復していくための努力なのだと思うのだけど、すでに失ってしまったものを取り戻すのは不可能なのだろうか。

このエントリーは次回で最後です。

投稿者 nagao : 00:07 | コメント (218) | トラックバック

2007年12月08日

コンテンツ・フューチャー(その4)

前回のエントリーからの続きです。

コンテンツとその伝達手段であるメディアを切り離して、既存のメディアやハードウェアに依存しない、コンテンツのエッセンスと、最も効果的なユーザーへのリーチの仕方について考える必要があるだろう。
それに関して、ラジオ業界の人からのこんな意見があった。

「今のメディアにおけるラジオという形態はなくなっても、「音声コンテンツ」は絶対生き残るという確信はあるんです。 音声コンテンツそのものへのニーズって普遍ですよ。 何かしながらでも楽しめるし、手軽だし。 ただ、ラジオというメディアじゃなくて、ラジオよりも優れていて、リスナーにとってもっとメリットがある音声コンテンツが出てきて、そっちで聴くほうが便利で楽しいんだったら、そっちに入れ替えちゃえばいいと思うんですよね。 (中略) コンテンツは何か別のところで生き残り、メディア自体は死んでしまうという現象は絶対に起きる。 ただ、ラジオがそうなるのかというのはまだわからない。 現状で言うと、ポッドキャストやネットでは出せないライブ感とかそういう部分があるから、僕はまだラジオの価値はあると思っています。」(102ページ上段)

確かに、ラジオのライブ感覚というのは残すべきコンテンツのエッセンスであるような気がする。
ただ、ネットにおけるライブ感覚というのは、ラジオのそれとは若干異なるものになるだろう。
それは、たとえば次の意見で言われているものである。

「ウィキみたいなシステムを基本にして、ニコニコ動画や字幕・inみたいに放送のタイムラインが表示されて、そこには放送の書き起こしデータがテキストで表示される。 その書き起こし部分をクリックするとストリーミングですぐ音声も聴けるようになってて、さらにリスナーがツッコミ入れたいと思ったらすぐ横にボタンがあって、ツッコミ入れられるみたいな仕組みがあったら、ネットとラジオが完全に融合した全く新しいメディアになるんじゃないかな。」(109ページ下段)

実は、ニコニコ動画や字幕・inの元ネタである僕たちのSynvieやDivieにはこれに似た機能がすでにある。
テレビの生番組やラジオのライブとは少し異なる、非同期性を持ったライブ感覚をネット上で実現することができる。
だから、テクノロジーが既存のコンテンツをベースにした新しいエクスペリエンスをもたらすことがある。

また、何をコンテンツと見なすかということもネットによって変わってきたと、この本は言う。
たとえば、こんな意見がある。

「コミュニケーションそのものがコンテンツ化するって現象は、以前だったら考えられなかったじゃないですか。 そもそもそういう環境はなかったし。 (中略) mixiで他人の日記を読むのが文化だという発想が出てくるのは、1つの象徴的な話だなぁと。 (中略) でも、それって良い悪いの問題じゃなくて、そうなってる、ある種必然的な環境の変化なんでしょうね。」(171ページ上段)

コミュニケーションそのものがコンテンツとなるというのは別に最近の話ではない(そもそもこの本のような対談集もコミュニケーションがコンテンツ化された例と言える。ただし、編集されているのでコミュニケーションそのままというわけではないが)。
ただ、ネットのおかげで、本来コンテンツの要素になりにくかったものもコンテンツに含まれるようになったのは事実だと思う。
たとえば、コンテンツに対するタグやコメント、ブックマークなどである。
僕は、一応これらをコンテンツとメタコンテンツに分けて、必要に応じてトランスコーディングという仕組みで統合することを試みているが、メタコンテンツがコンテンツの要素として表示され、ユーザーにはその区別が明確にならないことも当然あるだろう。

さらに、こんな意見があった。

「今ネットの中って、やっている本人がコンテンツだと思ってないところがあると思うんですよ。 単なるコピペでもアフェリエイト(注:正しくはアフィリエイト)でも、この話の流れでそれ持ってくるかー!みたいなのって、やっぱりセンスだと思うんですよね。 そこにはひねりがあって、創作的な要素が含まれている。 そしてそれがコンテンツが発生した瞬間であるとみんなが気づいたときに、既存コンテンツに対する壮大な見直しのようなムーブメントが起きるといいなと思ってるんですけど。」(173ページ下段)

既存のコンテンツが本来の意味を成さなくなる、ということはないだろうけど、およそ創造的な活動の成果はみなコンテンツ(あるいはその要素)と見なせる、という時代が来て、人間の活動がより広範囲に集積され、次の世代に継承されていくということは容易に想像できる。
それは突然起こるのではなく、じわじわと草の根的に広がっていくムーブメントなのだと思う。
どこかの誰かが仕掛け人となって、戦略的に引き起こすムーブメント(たとえば、日本におけるセカンドライフのようなもの)にはならないと思う。

このエントリーは性懲りもなく続きます。

投稿者 nagao : 00:14 | コメント (12) | トラックバック

2007年12月06日

コンテンツ・フューチャー(その3)

前回のエントリーからの続きです。

ネット時代のコンテンツの共有に関して、音楽業界の人がいいことを言っている。

「かたやコンテンツホルダー側から見ると、YouTubeはもう既成事実としてあるわけじゃない。 で、ぶっちゃけあれに対してどう接していいのかわからないんですよ。 僕も「ネットの違法コピーがこれだけあるから逸失利益がこれだけある」みたいに数字を仮定で算出するバカらしさは理解できるけど、でもじゃあYouTube的な違法コピー認めるの?って言われたら「No!」と言わざるを得ないし、業界はそういう方法でしか身を守る手段がわからないんじゃないかな。 「違法は違法じゃねえか!」っていう。 逆に言えば、行政の側もそれくらいしか提示できないんだよ。 彼らもどうすればいいかわからなくなっている。 だからね。 補償金の議論で言えば、僕は「補償金」って名前に抵抗感のあるユーザーがいるんだったら、じゃあ補償金はいりません。 その代わり「コンテンツ税」でも何でもいいけど、我々がユーザーの私的な利用領域については立ち入らない代わりに、全体として音楽業界のクリエイティブを支える大きなインフラがあればいいと思うんですよ。 もちろん、そういうものをきちんと分配するための制度は必要だと思うし、誰にどう分配するんだという議論はそのときにきちんとやればいい。 僕個人は結局ユーザーの私的複製の問題はそういう形でしか解決できないと思ってるんです。 こまっしゃくれたDRMとか駆使したって、結局はパテントを持っているメーカーを儲けさせて終わりじゃん、みたいな。 どこかで解除されたらあとは屍になっちゃうわけでしょ。 そんなことよりも、ある程度のアロワンス、(注:この読点はおかしい。「の」に換えるべきだと思う)ある社会を実現するための文化的インフラをみんなで作りましょうよ。」(131ページ下段)

これを見て、以前に書いた「コンテンツがタダになる日は来るか」というエントリーを思い出した。
やはり、結論は、「コンテンツはタダになってはいけない」ということなのだと思う。
自分たちのコンテンツが不用意に使い捨てにされないための努力をしなければいけないということだろう。
コンテンツがコピペで広まるのは、そのコンテンツを生み出した人間がコントロールできなくなるという点がダメなのだと思う。
それに関して、こんな意見があった。

「コピーコントロールしないってことは、ある意味それはコンテンツホルダーが「人々の記憶に残してもらうための投資」をしていることだと思うんですよね。」(293ページ下段)
「海賊行為は昔からずっとあるわけですけど、それでコンテンツ産業がなくなったかっていうとなくなってないわけじゃないですか。 僕はインターネットは産業全体を飲み込めるほどキャパシティが大きくないと思ってますし、ネットの海賊行為程度で滅びるコンテンツ産業はそもそもコンテンツに力がなかったんだ、とも思いますね。」(295ページ上段)
「種を残しておく。 だから、「コピー=悪」じゃなくて、「保険」って考え方はできないですかね。 文化を守るための保険。 文化が死なないためのね。」(298ページ上段)

これらの意見は正しいように思われるけれど、じゃあ今のままでいいんだ、ということにはならないと思う。
コピーコントロールしたって、文化は守っていけると思うし、クリエイターがやる気を失わないだけの報酬を得られる仕組みを実現するべきだと思う。
たとえば、テクノロジーを駆使して、ユーザーの自由な活動を支援しながら、商用コンテンツへのアテンションに結び付けていき、トータルとしてビジネスのバランスが取れて、誰も損をしないようにする、という手もあるだろう。
それに関して、こんな意見があった。

「「コピー=悪」みたいなことを言う権利者の方は多いですが、歴史を見れば、少なくとも今までに限っては全くそんなことはないということが証明されている。 コピーできるハードウェアが逆に視聴機会を増やして、そのこと自体がユーザーにコンテンツへの興味も増やしてきました。 アメリカでは「スリングボックス」という「ロケフリ(注:ソニーのロケーションフリー)」に似た商品が発売されて、CBSと提携して「Clip+Sling」というサービスを提供しています。 これはCBSがスリングボックス自体にオフィシャルにコンテンツを流して、それをPCソフトで受信して見ることができるというハードとコンテンツが一体化されたものですね。 Clip+Slingが面白いのは、提供されたコンテンツを見ながら面白いところでインポイントとアウトポイントを指定すると、その部分がClip+Slingのサーバーにアップロードされて、パーマリンク化されたコンテンツに対してYouTubeみたいにコメントしたり、ユーザー同士がコミュニケーションできるようになっている。 CBSの狙いはものすごくはっきりしていて、スリングボックスみたいな便利な機械を、コンテンツに興味を持ってもらうためのインフラとみなしてるんですよね。 コンテンツホルダーがそのインフラにコンテンツを提供するから、ユーザーにうちの番組に興味を持ってくださいという。 ゆくゆくはテレビを見てもらって視聴率が上がればいいや、っていうある種の割り切りがある。」(069ページ下段)

スリングボックスという製品の話は知らなかったけれど(ちなみに、これとほぼ同じことは僕たちのSynvieでもできる)、これは、前々からWiiの任天堂に提案したいと思っていた話に近いものである(今のところその機会はまだ訪れていないのが残念)。

コンテンツの視聴機会を拡張していくテクノロジーは、これからもいろいろなものが現れると思う。
それに関して、こんな意見があった。

「何をもって国を富ませるかって話で行けば、クリエイターとその周辺だけが儲かればいいってことじゃない。 物流以外にも、伝送やコミュニケーションに乗せて、国の経済力全体が上がるかどうかがポイントになる。 そういう意味では、テクノロジーの恩恵でコンテンツのアクセス性が高まることがキーになるわけです。」(301ページ下段)

ネットではアテンション・エコノミーと呼ばれているように、コンテンツやサービスへの大量のアクセスを獲得することはそのままある種の経済的優位性を獲得することにつながるという考え方がある。
そもそもコンテンツに興味を持ってもらわなければ、そのコンテンツの良さはアピールできない。
だからきっかけは何でもいいから、コンテンツにユーザーの注意を惹きつけるための何らかの工夫をしよう、ということだろう。
今のテレビのような、ユーザーを不必要に煽ったり、騙しのようなテクニックでユーザーを誤誘導しないような工夫ができるとよいと思う。
そのための技術は、やはりユーザーの集合知を利用するものだろうか。

このエントリーはまだ続きます。

投稿者 nagao : 00:28 | コメント (31) | トラックバック

2007年12月04日

コンテンツ・フューチャー(その2)

前回のエントリーからの続きです。

ネットによって、人々のコンテンツ消費のスタイルが変わってきたというのはいくつかの意見から読み取れる。
たとえば、これ。

「若い学生とかと話すと、やっぱりネットが好きでネットばかり見ていて、テレビを全く見ない子って増えているんですよね。 でも、そういう子もYouTubeは見ている。 彼らは動画コンテンツに興味がないわけじゃなくて、「情報処理」のスタイルがネット的なんだなという気がしています。 情報処理がネット的になるっていうのは、自分にとって必要なものだけをフィルタリングして取ってくると言い換えてもいいかもしれません。 そういう形に慣れた人は、従来のテレビ番組のようにリビングのテレビでみんなとわいわい話しながら楽しむということに、魅力を感じないのかもしれませんね。」(048ページ下段)

テレビを見ないことは別に悪くないし、かえって良いことだと思うけれど、これまでのようにコンテンツをだらだら消費するスタイル(カウチポテトって言葉はもう死語ですか?)の方が明らかに楽だし、検索するとかフィルタリングするとかの方が面倒だと思うから、若い人たちのテレビ離れというのは本当なんだろうか(本当なら大変結構なことだ)。
テレビを見ない人が本当に多いのなら、テレビ広告ビジネスは衰退しているはずだし、地上デジタル放送に完全移行してやっていけるのだろうか(ハイビジョン放送って結構コストがかかりそうだけど)。

また、こういう意見もある。

「(テレビは)メディアとしてドミナントじゃなくなってきています。 それは、テレビが本来の役割に純粋化されていく課程(注:過程の間違い?)にあるだけだと思うんです。 その意味でもネットがテレビを殺しているんじゃなくて、やっぱり今ネットがテレビを救っている。」(059ページ上段)

テレビがドミナントではないというのはよいことだと思うのだけど、本当にネットがテレビを救っているのだろうか。
ネットで批判されることによってテレビがよくなっていくというのなら、やらせや偏向報道ばかりのマスメディアなんて、とっくに変わっていてもよいはずじゃないか。
これに関連して次のような意見もある。

「書籍だったら、巻末に参考文献リストみたいなのが載っていたりするじゃないですか。 あれ、テレビでもあり得ると思うんですよ。 参考にしたものがあるのなら、クレジットの最後に「これを参考にして作りました」っていうテロップがひとつ出るだけでも、あらかたのパクリ問題って解決するような気がする。 結局、何も言わずに安易にパクるから、勘ぐられる部分がある。 「これこれこういうものから着想を得て、こんな番組を作りました」と源泉になったソースをオープンにしていくことがネット時代の作法としては理にかなっているし、余計な炎上の種にならない気がします。 ネットでパクリや倫理について糾弾している人たちって、法律的にどうたら、社会正義のために的なお題目を掲げてることが多いけど、実際は感情的なところで難癖付けてる人が多いんじゃないかな。」(056ページ下段)

こういうことができるのなら、とっくにやっていてもよいのではないだろうか。
それをやらないのは、やはりテレビ関係者が視聴者をなめているからではないのだろうか。

また、こんな意見もあった。

「僕は今のテレビの、テロップをうざいほど入れる作り方が嫌いなんですよ。 「ここが笑いどころですよ」みたいな感じで何でもテロップが入ったり、CM明けに番組が巻き戻されるのに腹が立って仕方がなかった。 普段はDVR(注:デジタルビデオレコーダー)でそういう巻き戻しは全部編集して観てるから、その感覚でオンタイムのバラエティ番組とか見ちゃうともう本当に見られたもんじゃないですね。 「引っ張りすぎだろ!」とか「またCMかよ!」みたいな。 そういう怒りを僕は持っていたし、それはもうテレビの自滅じゃないかとすら思ってたんだけど、実は今回の取材でそこの意識だけは変わったんですよ。 それは何かというと、「テレビってそもそもそんなに真剣に観るメディアじゃないんだ」ってことなんです。 (中略) ユーザーは気になったところだけパッとフォーカスして見るというスタイル。 だから、必然的に最大公約数を取るようなコンテンツ作りになるし、濃密なコンテンツってそもそもテレビのコンテンツとしてそれほど求められていない。 全部の番組がNHKの骨太なドキュメンタリーみたいになっていくのは、テレビというメディアのあり方としては本質的に違うのかなという。」(167ページ上段)

テレビのコンテンツの質が下がるのは避けられないということか。
結果としてそうなってしまうというのならまだしも、作り手側がその程度のものだと思っているのはどうなのだろう。
テレビがよくなっていき、再び多くの視聴者のアテンションを惹きつけていくためには、コンテンツの質を上げ、視聴者を馬鹿にせず、その批判にきちんと対応して、信用や人気を回復していく努力をしなければならないのではないだろうか。
その程度のことは承知していても、テレビ広告費がどんどん下がっていき、制作者側のモラルが低下してきている今日では、誰かが変革を起こそうと思ってもどうにもならない状況なのだろうか。
無名でも実力のある俳優を起用したり、しがらみの少ないフリージャーナリストにコメントさせたりして、ドラマやニュース番組を、それほどコストをかけずにもっと真面目に作る、という試みを何年か続けてみたらどうなのだろう(ちなみに、僕は「たかじんのそこまで言って委員会」というテレビ番組をよく見ています。普通に芸能人も出ていますが、比較的よく作られていると思います)。

このエントリーはさらに続きます。

投稿者 nagao : 19:03 | コメント (238) | トラックバック

2007年12月02日

コンテンツ・フューチャー(その1)

最近、「CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ」(小寺信良・津田大介著 翔泳社 2007)という本を読んだ。
この本は複数の人との対談集なので、いろいろな人のいろいろな意見がざっくばらんに入っていて、主張点が分散してしまい、内容が記憶に残りにくい。
そこで、この本を僕なりに編集し直して、何が言いたいのかもう少しわかるようにしてみようと思う。

この本はコンテンツの未来を語るというより、コンテンツの今(つまり現実)を語っている部分が多い。
実際にコンテンツの制作に関わっている人を多く集めているのだから当然だけど。

この本は今後現れるであろう新しいタイプのコンテンツについてはほとんど何も言っていない。
多少思いつき程度で語られているものはあるけれど、実は今のテクノロジーですでに実現されているもので、未来のコンテンツと言えるほど発想が飛躍しているものではない。


まず、僕が気になった一つ目の意見はこれ。

「ネットの世界は、PCなどの技術モデルは「メイド・イン・USA」であり、グーグルやiTSなどのビジネスモデルもメイド・イン・USAであり、あと残っているのはコンテンツモデルだけなんですよ。 これを探すことが、日本に残されたただ1つのものだと思う。 これはテレビ局だけの話ではなくて、「それを探そう」って決意することが必要。 そうじゃなくて「儲かる方法は何だ?」ってやっていたり、「アメリカに追いつこう」「アメリカはこうしているぞ、日本はどうしてならないんだ」みたいな議論では、絶対に映像コンテンツの可能性の話には行かないっていう気がするんですよ。」(014ページ上段)

これはテレビ局の人からの意見で、僕はもっともだと思うけれど、残念ながら、新しいことを試そうとするときにはアメリカの方が都合のよい社会システムになっているようだ。
たとえば、この本の著者の一人はこんなことを言っている。

「別に僕はフェアユース信奉者じゃないけど、コンテンツ産業がどのようにして大きくなっていったかということを歴史的に見ていくと、やっぱり重要な部分でフェアユースが関わっているんですよね。 フェアユースがある種の「バッファ」になってる。 そういうバッファを設けておくことで、実際にどうなるか何年か様子を見ようみたいなことができるわけで、とにかくパーッと出してみて伸びしろがありそうだったら伸ばして、ダメそうだったら潰しちゃえばいいじゃんという現実主義的なスタンスが取れるのが、アメリカの強さなんだと思います。 少なくとも自国のコンテンツを守るという意味において言えば、コンテンツにとってどっちが幸せかというと、僕はアメリカ型だと思うんです。 杓子定規に全部を法に照らし合わせて対処することが、コンテンツにとって幸せかどうか。 それを著作権者だけが判断するのではなく、クリエイター、ユーザーも交えて議論しなきゃいけない。」(283ページ下段)

この意見のように、確かにアメリカの強みは、最初のうちはどんな試みもそれなりに許されて、しばらく様子を見てもらえるところにあるような気がする。
そうでないと、たとえば大学院を出たばかりの人間が、独自のやり方で大企業のビジネスモデルに対抗するアイディアを実行するなんてことがそうそうできるはずがない。

一方、元官僚の人はこんなことを言っている。

「ネットワークの法体系とコンテンツに関する法体系が違っていても、それは通信と放送の区別のような二分法じゃないんですよ。 むしろネットワークの存在する部分は、通信も放送も区別なくIPに収斂していくんじゃないでしょうか。 だから僕の考えでは「IP法」みたいなものができれば、たぶん全部上手くいく。 でもコンテンツは逆にバラバラに多様化の道をたどる。 今後どんどん多様化していくものを1つの考え方にまとめるようなことはしないほうがいい。 つまり、わからない部分が多いからここ10年くらいはとにかく「暫定合意」をたくさん作っていくというスタンスでいくしかない。 それを、コンテンツに関わる人たちが了解する必要があるんですね。 コンテンツ政策は、「暫定了解・暫定合意の10年」という期間に入ったと思っています。 (中略) 半年に1回でもいいからとりあえずその場その場で暫定合意を形成して、その合意も技術の変化や、ビジネスの立ち上がりなどに応じて変えていくということをしないといけない。 ここしばらくは技術やビジネスの進化が速いんで、霞ヶ関で集まってみんなが合意してルール決めて、という従来のやり方ではコンテンツを取り巻く「現実」に追いつかないですよね。」(231ページ上段)

こういうよくわかっている人がいるのはよいことだけど、現役の役人でいるうちに、ちゃんと内部から改革していただければ、ここまでアメリカに遅れをとることはなかったと思う。

しかし、日本のコンテンツ文化がアメリカに負けてない部分もあるという意見もある。
たとえば、次のような意見である。

「アメリカはハリウッドで今のコンテンツを制していますが、ハリウッドのモデルは、社会構造の三角形の上部、一握りの天才達がモノを作って、みんなに売るというパターンです。 ですが日本は、中間層の強さでずっとモノを作ってきたわけですよね。 だから、デジタルの力がみんなに降りてきたら、中間層が強い国は絶対に勝てる。 CGMって、そういう日本のためにあるような概念ですね。 だけど、その力を活かすためのツールは別に日本製でなくてもいい。 アメリカのYouTubeでもいいし、中国製でもいいし、イスラエルのものでもいい。 そのときどきで世界で一番良い道具を使って、コンテンツを生んでいくという方法論を曲げないことが重要だと思うんです。 (中略) 技術はずっと外のモノでもいいから、たぶん「大衆がコンテンツを作り続ける」ということが日本の強みになっているんですよ。 だから、ブロードバンドや携帯を使って大衆側が新しいコンテンツをどれだけ作っていくかという環境整備が、すごく大事だと思ってます。」(243ページ上段)

この意見もそれなりにもっともだと思うけれど、道具であるテクノロジーは使えるものなら何でもいい、という考え方はあまりよくないと思う。
コンテンツを生み出す人間とテクノロジーを生み出す人間が密に連携できるようにするほうが何倍もいい。
CGMが日本の強みだと言うのならば、それに適したオリジナルのテクノロジーを開発する努力は、コンテンツを大衆が作り出す雰囲気を作ることと同様に推進するべきだと思う。

テクノロジーはニュートラルなもので、要は使い方次第である、ということを言う人がいるけれど、僕はそうは思わない。
テクノロジーは人間の思考に何らかのバイアスを与えることができると思っているし、やりようによってそのテクノロジーを発明した人間の意志を利用者に伝えることができると思っている。
今とりあえず使えそうなものが他にないから、海外のサイトはクールだから、とかいって、FlickrやYouTubeやGoogleを使ってきた人たちは、新しいテクノロジーを生み出そうとしてがんばっている人間が身近にいても、それを軽視してしまうことになるのではないかと思う。

でも、あえて楽な道に流れてしまわないためのテクノロジーの開発というのも必要なのである。
たとえば、この本に登場する有名な文化人はこんなことを言っている。

「(編集的な視点を持つためのトレーニングとしては)マップだとか年表だとか、ディクショナリーとかを見直すとよい。 ちょっと専門的に言うとコノテーション(注:connotation。内包的意味)とかデノテーション(注:denotation。外延的意味)とかね。 そういう、意味というモノが持っている補助ツールが、実は我々を救っているんだ、ということを自覚しなくてはいけない。 ところがコピペには、そういうコノテーションとかデノテーションがない。 一回一回辞書を引くとか、年表を見るとか、漢字の部首を調べるとか、そういう面倒な手続きがなくなっているわけですよ。 実は編集というのは、半分は手続きなんです。 面倒くさいことをわざわざやることに意味がある。 コンテキストの勘がはたらくようになる。 これが編集のABCなんですね。 よって編集的な能力を増やすには、ウェブ上から取ってくるコンテンツをわざと加工せざるを得ない、編集せざるを得ないもので出しちゃうのがいいんじゃないかな。 言い換えればウェブにおけるアフォーダンスを、分化して作っておく。 編集っていうのはね。 簡単に言うと、そういう手続きとアフォーダンスの自覚から始まるんです。」(262ページ下段)

これは大衆がコンテンツを編集するスキルを身につけるべきという文脈で語られていることであるが、これにはやはり新しいテクノロジーが必要だと思う。
以前に「モノトニックな編集」について書いたけれど、僕は今あるツールで間に合わせておこうと考えると、立ち上がりは早いかも知れないけれど、本質的に学ぶべき点を見失ってしまうのではないかと思っている。
だから、急がば回れの精神で、アメリカの性急過ぎるアプローチとは別の、日本人ならではの慎重で節度あるやり方でコンテンツを作っていく仕組みを作るのがよいと思う。

でも、著者の一人はこんなことを言って、結局今のやり方を肯定してしまっている。

「物を作るプロセスってさ、いろんなものが徒弟制度で培われてきたっていうのはあるんだけど、それは昔の作り方なんだよね。 これからの新しいコンテンツ制作って、たぶんそういう過去の方法論とかセオリーと決別して、勝手に自分勝手に見よう見まねでやっていく。 そうしてなんか新しいものが出来上がっていくっていうようなプロセスになっていくような気がするんですよ。 だから僕は、「クリエイティビティは模倣から始まる」っていう論は捨ててないんだよね。 今やテクノロジーのおかげでコンテンツはたくさん手に入る、見る量も多い。 そうすると、見よう見まねだけでやってみるって人もたくさん出てくるはずなんですよ。 デッサンみたいな基本をすっ飛ばして、見ただけでそれなりのものが作れちゃう人たちが出て来て、どんどん自分でものを作っていく。 そうすると、そこからオリジナルのセオリーができるじゃないですか、過去のやり方知らないんだから。」(305ページ下段)

創造が模倣から始まるのはいいけれど、大衆がみなブリコラージュ(器用仕事)ばかりを追及してセオリーを無視していたら、コンテンツの量産にはつながるとしても、コンテンツの進化にはなかなかつながらないと思う。
やはり、量産してどんどん質が下がっていく前にやるべきことはあると思うし、それはクリエイティビティに古くて新しい(つまり、過去の伝統を継承して新しい時代に適合させた)セオリーを与えることではないかと思う。
それは、やはりコンテンツの意味を考えて、あえて面倒な編集を加えていくことではないかと思う。
僕が以前に「Webの望ましい進化」で書いたことはそういうことである。

このエントリーは次回に続きます。

投稿者 nagao : 11:33 | コメント (290) | トラックバック