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2008年11月24日

権威を壊し、権威を創る

ネットが破壊したいくつかの伝統的なものの中に学術的権威がある。

マスメディアは大衆の意識を操作するために学術的成果よりもその権威をよく利用した(誤用や意図的な誘導もたくさんやった。ちょっと古いが有名な例は「あるある大事典」)。
そして、マスメディアの腐敗の陰で、ネットが人々の目を覚ますために機能した。
しかし、当然の帰結として、マスメディアが重用してきた権威を疑うことになった(ノーベル賞のみが依然として権威を維持していると思われるのは脅威的である。なぜあの賞だけ世界が一様に評価しているように見えるのか説明できます?)。
確かに、マスメディアにおもねり芸能人もどきとなった知識人(大学教授とは限らない)はたくさんいるし、そういう人たちは深い学問を単純化してみせたり(わかりやすくすることと単純化することは同じではない)、特殊な事例を拡大解釈して一般化してみせたり、結論の出ていないことを言いきってみせたり、難解な専門用語を使って素人を煙に巻くことに貢献してきた。
だから、ネットユーザー(特に、マスメディアによる洗脳が解けた人たち)が多くの学術的権威に疑義を抱き始めた(と思われる)のは無理からぬことである。

その代わりに台頭したのは、ユーザーによるランキング、要するに大衆の人気である(それを集合知と呼ぶ人もいるが、僕はランキングの類は集合知だとは思っていない)。
僕は、ベストセラーを含む一般向けランキングを参考にして行動することはほとんどないけれど、一部の専門家の評価よりも、著書が売れているとか、ブログのアクセス数が多いとか、クチコミによる評価が高いとか、の理由で、専門家ではない人の手による、ある内容に関する信用度が上がってしまうという状況は危険だと思っている(比較的最近の例では、ソーシャルネットワークにおけるいわゆる「6次の隔たり」)。
ランキングを信じるのが常にまずいわけではないが、学術的内容に関連するものなら、(特に、マスメディアに利用されていない)専門家の考察や評価を参考にすべきだろう。
その専門家個人が無名でも、その個人が関わっている組織(特に学会)を信じよう、ということである。

たとえば、僕の兄は現在、小児科の開業医をしているが、日本小児科学会の年次大会(学術集会)には必ず出席するそうである。
学会誌などの専門書を読んで勉強している時間はあまりないけれど、最新の成果を知っておかないと患者への対処を間違ってしまう可能性があるからだそうである。
つまり、少なくとも兄にとっては、自分の所属する学会が有効に機能しているようである。

しかし、どうも存在意義がよくわからない学会がたくさんある気がする。
「そもそも、学会って何のために存在するのかわからない」「学会がなくても別に困らないのではないか」という具合に、権威が失墜するばかりか、人々にその存在理由を問われてしまうのではないだろうか。
実は、僕もそんなふうに考えていた時期がある。
僕に査読がまわってくる論文のほとんどが取るに足りないゴミ論文だったり、年次大会で僕が聴講した発表の多くが「この学生の指導教員は何をやっているんだ」と言いたくなるようなダメ発表だったりしたからである。

ネットがあたりまえになる以前は、学会に参加しなければその分野の状況がよくわからないため、どうしても会員にならざるを得なかった。
それでも、多くの場合、期待していた内容や議論を発見することができずに失望を繰り返していたのである。
ある学会なんか学会誌をちらっと見ただけで、やる気のなさが伝わってきて、会員になるのをやめたことがある。

しかし、あることを通じて考えが変わった。
そのきっかけは、僕が以前から関与している「デジタル認知科学辞典」である。

デジタル認知科学辞典というのは、現在、僕がほぼ一人でメンテナンス(データの修正・更新やダウンロードサイトの管理)をしている電子辞典である(最近第2版が発行されることになったので、初版をお持ちの方はここにアクセスしてアップデートしてください)。
辞典コンテンツの著作権は日本認知科学会という学会のもので、この学会が編集したことになっている(僕はこの学会の会員ではないが、この辞典の編集委員の一人である)。
この辞典は、まず紙媒体として出版され、その後電子化され、CD-ROM版が出版された。
その電子版の設計は僕が行い、研究室の学生たちと一緒にWeb上にシステムを構築した。
このシステムは、オンラインでコンテンツを管理し、検索・編集・新規項目の作成(および、編集者によるコメント付与)をするためのものである。
ただし、残念ながら、このWebシステムはまだ一般には公開されていない。
これが公開されれば、専門家のレビュー・コメント付きのWikipediaみたいなオンライン辞典が実現できるだろう。

また、これは余談であるが、辞典項目の図や数式をテキストとシームレスに表示するために、SVG (Scalable Vector Graphics)を利用している。
実は、僕は普段Internet Explorer (IE) Version 6(OSはWindows XP)を使っているので最近まで気がつかなかったが、IE以外のブラウザはAdobeの提供するプラグイン(SVG Viewer)なしでSVGデータを表示できる。
それで、デジタル認知科学辞典のコンテンツを、IE以外のブラウザでAdobeのプラグインなしで閲覧できるように表示形式を変更した(ブラウザの種類によってembedタグとiframeタグが入れ替わる)。
しかし、IE Version 7(およびWindows Vista)ではなぜかこの辞典のコンテンツをちゃんと表示することができない(MicrosoftもAdobeもこの件ではあまり当てにならない)。

SVGの良い点は、図や数式とテキストがシームレスに表示できる(正確には、HTMLと同様にトランスクルージョンという手法で外部データを埋め込んでいるのだが、SVGの方がよくできている)ことや、ベクトル形式なので拡大縮小が柔軟にできることなどである。
実は、テキストコンテンツの引用をコピー&ペースト以外のやり方で実現するために、SVGは重要な役割を持っている、と僕は考えている(コピペによるテキストの引用がダメというのは僕の信念である)。

さて、この辞典(に関わる活動)がきっかけとなってわかってきたことは、学会がその関連分野の専門用語辞典を作るという話の先に、学術的オントロジーの構築と維持という、より大きな目標があるということである。
オントロジーとは、要するに言葉および言葉と言葉の関係を詳細に定義したものである。
同じ言葉が、文脈(時代背景などを含む)によって異なる使われ方をするのならば、それらを区別できるように細かく定義するということである(一般に、オントロジーは、言葉の意味を細分化した概念に相当するノードと、ノード間のリンクから成るグラフとして表現される)。
言葉というのは人間の思考の断片を表すものだから、その意味(定義)はそれを使用する人間に依存する。
しかし、すべての人間ごとの意味を正確に考慮するのは不可能だから、考えられる多くのケースに基づいて、この言葉の意味(定義)はこうだ、と誰かがお墨付きを与えるのである。

これがなぜ重要かというと、言葉の意味を詳細に定義していくと、異なる言い方が同じことを言っているのかそうでないのかを厳密に判断することが可能になり、それによって情報をより正確に伝えることができるようになるからである。

しばしば、異分野の研究者間でコミュニケーションがうまくいかないのは、お互いの語彙のすり合わせがきちんとできないからである。
同じことを異なる側面から見ていることがわかれば、文脈が伝わりやすくなり、議論のきっかけができるだろう。

学会の重要な役割の一つは、ある専門分野に関するオントロジーを構築し維持していくことである。
そして、学会に所属する研究者がその分野に貢献するということは、その学会の構築したオントロジーを拡張していくということである。

あらゆる論文を、オントロジーのどの部分に何を加えたかということで評価するのである。
どれほどの量の論文を発表したとしても、ほとんどオントロジーに貢献しない(すなわち、その論文は既存の概念の言い換えに過ぎない)のなら、たいしたことはしていないことになる(ただし、言い換えたことによって、他の研究者に良い刺激を与えたのならば、その点は評価すべきだろう)。

こういうことをはっきりさせていくことで学会の存在意義がわかるのである。

そして、学会のもう一つの役割は、(会員以外の人を含めて)人々の好奇心や学習意欲を刺激して、学問の世界に適切に導いていくことである。
誰かが何かを知りたいと思ったら、それがどのオントロジーのどの部分に関係するのか、はっきりさせて、読むべき文献を紹介し、そのテーマがいったいどういう経緯で研究されてきたのかを概観する手助けをするのである。

さらに、教師は、学生の好奇心(に基づく行動)と学術的オントロジーを適切に結びつける義務があると思う。
教師は、学生をよく観察して、その学生に学習へのきっかけを与えるべきである。
好奇心のない人間はいないのだから、どんな学生でも学問の世界に導いていくことはできるはずである。
無論、学会はそういう教師を支援しなければならない。
教師自身がある学問の専門家である必要はないけれど、学会の提供するオントロジーを利用するスキルは必要になるだろう。
それによって、誰かがあることに興味を持ったとき、それがいったいどのような学問に関わることなのか、そしてそれがどのくらいの深みと厚みをもった学問なのか、オントロジーを利用することによって知ることができるだろう。

そして、学術的オントロジーは論文の書き方にも影響を与えるだろう。
これからの論文は、研究の背景や関連研究に多くのスペースを費やす必要はない。
どのオントロジーのどの部分にどんな新しい内容を追加するのか、根拠を示しながら、提案すればよいのである。
オントロジーへの貢献度がその研究者の評価に直接結び付くような世界になればいい。
そのような論文の書き方をすれば、論文の冗長性は激減し、従来研究との差分やエッセンスを容易に見い出せるようになるだろう(論文は物語ではないので、このような書き方でも問題はないと思う)。

オントロジーとの関係を考慮せず、ただ発明・発見された理論や技術の実用的な部分のみを公表したいのなら特許を書けばよい。
しかし、論文は、それにどれほどの学術的価値があるのかを明らかにしなければならない。
そして、その学術的価値を保証してくれるのは、マスメディアでも、ネットでのランキングなどでもなく、オントロジーを維持している学会なのである。
Wikipediaについて、専門家が自分の専門分野においては参考にならないと判断しているという話をよく聞くが、やはり大衆の力では専門分野の辞典やオントロジーを正しく構築・維持することはできないのだろう。
そういうオントロジーには多大な労力がかかるから、学会に頼らざるを得ない状況が発生するのである。

さて、このような専門家による分野ごとのオントロジーは、いずれ総合学術オントロジーという形で統合されるだろう。
総合学術オントロジーは、さまざまな分野のオントロジーが高度に連携され、分野間にまたがった検索や推論も可能で、それぞれの分野の研究者の間のコミュニケーションを円滑にするだろう。
この企画は、僕の古くからの知り合いが提案したもので、僕もそのプロジェクトに関わっている(この知り合いは僕にとって数少ない尊敬できる人物の一人である)。


「情報爆発」なんていう言葉があるけれど、情報が爆発してしまってからその後始末を考えるだけでなく、情報の爆発をできるだけ未然に防ぐための努力が必要なのである。
それは、公開されるコンテンツ(つまり、論文)の量を制限するだけでなく、コンテンツの持つ情報量そのものを圧縮することも含んでいる。
冗長性をなくし、誰にでもそのエッセンスが何であるかわかるようにするのである(ただし、その意味を正確に理解するためには関連するオントロジーにある程度精通している必要がある)。
(学術的内容に限定されるとしても)情報の爆発を防ぐことができるのは学会(より厳密には、ユーザーから投稿されるコンテンツを適切に評価する組織)だけだし、そのためにやるべき最も重要なことは、オントロジーを責任を持って構築・維持していくことなのである。

多くの学会が自らに課せられた責任を果たし、ネットユーザーからの質問に注意深く答え、まっとうな批判には真摯に対応し、マスメディアによる誤った学説の流布にはきちんと訂正を求め(その経緯もネットで公開するとよい)、専門分野に関する教育に対する具体的な提言を続けていけば、その学会の学術的権威は必ず生まれてくるだろう。

その結果、ネットに破壊された権威はネットで再生するのである。

投稿者 nagao : 2008年11月24日 17:11

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